城データ
城名:土居城
標高:140m
比高:30m
築城年:不明
城主:三須氏
場所:広島県広島市安佐北区安佐町大字飯室
北緯:東経:34.552539/132.449321
攻城記
現在は神社の境内になっている
「鎮座地 広島市安佐北区安佐町飯室 1652番地
祭神 主神 ホンダワケ命(応神天皇)
相殿 タラシナカツヒコ命(仲哀天皇)
オキナガタラシヒメ命(神功皇后)
ミズハノメ神(水の神)
例祭 11月3日
神社創建 御神体八人皇第75代崇徳天皇の御代
天承元(1131)年 甲斐国より飯室宇津へ勧請
土居城主三須氏退転後その城跡なる現在地泉山へ遷宮
その年号不詳なるも概ね天文20(1551)年前後ならんか
往古は飯室八幡宮と称し飯室村社なりしが
昭和27年宗教法人土井泉神社として設立登記す
社殿 元禄7(1694)年本殿再建
文政12(1829)年本殿弊拝殿再建(以下省略)
石段があるので簡単に本丸に行ける
本殿の一段下の曲輪。
本丸付近から見た飯室の風景(江戸時代では近隣で一番人口が多く519戸あった)
本殿看板。
本殿裏の土塁。
土居城の矢竹。
最高所からの眺望(北方面)
本丸を降りて更に東へ行くと大きな曲輪がある。
さらに行くと藪化が激しくて断念。
土居城全景。
open-hinataより【土居城】
余湖図【土居城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』土居城
八幡社の奥に古城とある。
城の概要
尾根上に郭と堀切を直線的に並べた構造をしている。
土井泉神社のある最高所は東側が一段櫓台状に高くなっており、その東は小郭を経て堀切となっている。
堀切の東には城跡最大規模の郭があり、さらに東側には大堀切がある。
城主は三須氏と伝えられている。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
城の歴史
この城で戦があったことは知られていない。
三須氏について
三須氏はこの地の小国衆であり武田家家臣であった、同じ国衆の熊谷氏とは婚姻関係がある、また熊谷氏から養子を貰っている。
三須次郎兵衛尉忠清
安芸国には、古くは鎌倉時代より武田氏が守護として任じられて守護代を派遣していたが、南北朝時代に武田信武の次男である武田氏信が分家して安芸武田氏となった。
しかし、室町幕府は応安元年(1368年)に氏信を守護職から解任。代わって、今川貞世・細川頼元・渋川満頼が次々に任じられた。
その後は山名氏が守護を引き継ぐも十分な支配を敷くことができないまま応仁の乱により勢力は減衰。一方で、安芸武田氏も勢力を回復させるには至らなかったことから、安芸には有力な支配者がおらず、長年に渡り幕府や近隣の大勢力に振り回されることになる。
そのため、安芸の国人領主たちは、相互扶助を目的として団結することで対処しようとしていた。
応永の安芸国人一揆
周防国・長門国を支配していた大内氏は、安芸にも勢力を拡大して安芸武田氏を圧迫、奪った領地の一部を安芸の国人たちに与えるなどして大きな影響力を持った。
やがて、2代将軍の足利義詮が大内氏の防長両国の守護を認めたため、大内氏は幕府に帰順する。しかし、防長2ヶ国に加えて石見国・豊前国・和泉国・紀伊国の守護となっていた大内義弘は3代将軍足利義満の不興を買い、応永6年(1399年)に応永の乱が勃発。
この戦いでは義満方が勝利したものの、応永8年(1401年)までには義弘の弟である大内盛見が幕府の処分に抵抗して勢力を盛り返したことから、大内氏は引き続き周防・長門・豊前・筑前の守護として認められていた。
一方、応永10年(1403年)に山名満氏が安芸守護に任じられるが、かつて大内氏から与えられていた所領が没収されることを恐れた安芸の国人たちは山名氏に抵抗した。
山名軍は有力な国人のひとりである平賀氏を攻めて平賀弘章が籠る御薗宇城を包囲するが、国人たちの多くは平賀氏を支援した。
そして、毛利氏・熊谷氏・宍戸氏・小幡氏などの国人ら33人が、応永11年(1404年)9月23日に結んだのが5か条から成る「安芸国人一揆契状」であった。
これにより、御薗宇城は3年に及ぶ長期戦に持ちこたえ、平賀氏は多くの犠牲者を出しながらも山名軍の撃退に成功した。最終的に安芸国人衆は、介入してきた幕府に従うこととなったが、安芸の統治に失敗した満氏は守護識を罷免されている
この国人領主の中に三須次郎兵衛尉忠清の名前が記載されており安芸国国人衆の一員として存在していたことが分かる。
三須備後守信清
熊谷家の家系図に堅直の娘が三須備後守信清に嫁ぐとある、後世に三須房清が熊谷元直の娘と婚姻関係を結んでいることから、この三須氏と関係があると思われる。
三須筑前守房清
『陰徳太平記』によれば、大永4年(1524年)に大内義興が安芸に侵攻し、安芸武田氏の居城・佐東銀山城を包囲した。
同年7月に、三須房清は、香川光景・熊谷信直らと大内包囲軍に奇襲をかけ、散々に打ち破った。
熊谷元直の娘(信直の妹)と婚姻関係を結ぶ、『陰徳太平記』にその経緯が記載してある。
経緯として、天文2年(1533)に武田家当主の武田光和は熊谷信直の妹を側室に迎え入れたと思っていた、信直は再三断りを入れていたが、岳父の説得でいかんともし難く、とうとう妹を光和の側室にせざるを得なかった。
妹は悲しみにくれ、嫌々であったが、隠忍自重の末、城下を抜け出すチャンスを得て一目散に兄のいる可部三入に逃げ帰った。
それを知った、光和は妹の返還を迫ったが頑なに譲らず、また妹を近隣の三須房清に嫁として送った。
それを知った光和が烈火のごとく怒り、熊谷氏を攻める為に可部に攻め入ったっが、可部の横川付近で戦が始まり、結局敗走せざるを得なかった、これにより武田家はさらに凋落する事となる。
横川の合戦
天文2年(1533年)に所領の問題と武田光和夫人であった妹への待遇への不満、大内氏・毛利氏・熊谷氏の密約が漏れたこと、信直が武田氏の所領を横領したことなどで武田氏と対立。
ついには自身の居城である三入高松城が攻撃を受けた。兵力は1,000余で、それを二手に分け、三入高松城を攻撃するのは総大将・武田光和以下、品川信定他200、もう一軍の総大将は武田一門の伴繁清、それに従うのは香川光景、己斐直之、熊谷一族の山田重任、温科家行、飯田義武、板垣繁任などのそうそうたる顔ぶれであった。
それに対して熊谷勢は信直を総大将とし、弟の直続、末田直忠・直久兄弟、岸添清直、水落直政らがこれに従った。
三入庄に侵攻した伴繁清率いる武田軍は三入横川表に進出し、防備を固めていた熊谷信直配下300と激突した。
この横川表の戦いにおいて少数の熊谷勢は奮戦して、総大将の伴繁清を負傷させた。また三入高松城へ侵攻した本隊も多くの死傷者を出し、撤退を余儀なくされた。これを横川表の戦いと言う。
このような経緯で三須房清は熊谷氏と婚姻関係を持つこととなる
『陰徳太平記』によれば、天文11年(1542)に大内義隆が尼子氏の月山富田城を攻める時に、熊谷・香川・三須・飯田・佐藤(東)郡の衆は八重垣に陣を張るとある。
八重垣=島根県の八重垣神社がある付近か。
天文21年(1552)に毛利氏が備後宮氏の志川滝山を攻めた時に従軍しており、三須氏の家臣8人が軍忠状の中に記載されている。
天文22年(1553)に陶晴賢の配下として毛利氏が高杉城を攻めた時に、平賀・熊木・三須・香川・遠藤・入江・山田・飯田以下六千の兵を率いる。
天文24年(1554)に毛利氏が厳島合戦を行う時に芸州勢として熊谷・天野・阿曽沼・三須・飯田・遠藤・蘆原・山県・福井・福島・桑原・豊島・香川淡路守父子らとともに陶軍と対峙する。
弘治3年(1557)に毛利氏が大内義長の立てこもる勝山城を攻めた時に芸州勢として熊谷・阿曽沼・三須・遠藤四千騎に加わる。
永禄元年(1558)毛利氏と尼子氏が石見国邑智郡出羽で戦をした時に熊谷・三須・天野以下三千人を加勢として加えさせる。
三須兵部少輔隆経
三須房清の養子で実は熊谷信直の四男、信直の妹が三須房清の妻となっており、自分の伯母の嫁ぎ先に養子に行ったことになる。
『陰徳太平記』によれば、永禄5年(1562)毛利氏が尼子攻めをしている時にその従軍者の中に三須兵部少輔として記載がある。
天正8年(1580)に塩谷元真・湯原春綱・小川元政らと共に美作医王山城に籠城。宇喜多軍を撃破している。
ただし、三須房清のところで記載したものは三須隆経の事績の可能性もある。
※『新裁軍記』では厳島合戦以降は両名の事例となっている。
三須氏の謎
『陰徳太平記』では三須氏は安芸国国衆の中では大きな勢力を持っていた「熊谷」「天野」「阿曽沼」らと同列に記載されていることが多い、普通に考えれば、飯室方面に大きな勢力を持っていた国衆と考えられるが、これまで大きな国衆にも関わらず、歴史の表舞台に出てこないのが不思議である。
また、三須房清は養子として熊谷信直の四男である、隆経を養子として貰っているが、以降も三須氏として家名を保っているのであれば、関ケ原以降も萩に行ったと思われるが、『萩藩閥閲録』にも記載がない。
『広島郷土史談』という書物の中に隆経の子孫が熊谷になっていることが記載されていた、熊谷為之助、熊谷鉄之介、熊谷元宏(東京在住)
調べると、熊谷鉄之助は明治34年の「通俗歯科衛生」という書物を記載していると思われる。
上記の事から三須氏は隆経が継いだが、いつ頃から実家の熊谷氏に名を戻した可能性もある。
理由は不明であるが、安佐北区白木町秋山の国衆であった、秋山元信が井原次男である元応を養子としたが、毛利輝元の勘気に触れ元応を井原姓に戻させた事例がある。
(例)
『萩藩閥閲禄』巻73「井原助之進」の末尾に以下のことが記載されてある。
私高祖父井原掃部助元応儀者、井原四郎兵衛元尚次男に□、秋山九郎兵衛元信養子罷成、秋山之家続仕候處、輝元公被成御意、実方之称井原相改申候、秋山之先祖備後国ニ罷居、(以下略)
三須房清と隆経の事績が厳島の合戦以降混同している点と、土井泉神社の由緒の中で「土居城主三須氏退転後その城跡なる現在地泉山へ遷宮その年号不詳なるも概ね天文20(1551)年前後ならんか」とを勘案するに。
①三須房清は大寧寺の変にて大内義隆に味方した為、陶晴賢方に攻められて没落。
②その後、熊谷信直の四男である隆経が三須氏の家督を相続して厳島合戦以降活躍する。
③しかし、後世に何かしらの理由で三須氏から実家である熊谷氏に改姓する。
④関ケ原以降は飯室熊谷氏はそのまま帰農することで飯室熊谷家として存続。
とも推測することもできるが、今となっては確認ができない。
城主家系図
三須忠清、三須信清、三須房清の関係は不明、「清」の通字があることから当主と思われ直系の子孫の可能性もある。
城主石高
三須六右衛門という人物が安芸賀茂郡に100.122石の所領を賜っているが、この三須氏かは不明。
所感
●神社の前進が城である事例は数多くある。
●三須氏も中世小領主として戦国時代の中で消えていったが子孫は存続したものと考えられる。
●『陰徳太平記』の中には三須氏が記載されているが熊谷・天野・阿曽沼など大きな国衆と名を連ねることが不思議。
●関ケ原以降三須氏がどのようになったか不明。
●神社の裏に広い曲輪があったが、藪化で断念、もう少し奥までいくと開けたところがあるようなので、そこまで行けずに残念。
関連URL
大寧寺の変以降に名前が出てこなくなった戸坂氏。
近隣の国衆である毛木氏、こちらも関ケ原まで国衆としての家名を保てなかった。
三須氏もこの高杉城を攻めたと考えられる。
参考URL
参考文献
『芸藩通志』
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『新裁軍記』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島郷土史談』
公開日2021/05/04
はじめまして。
千葉県八街市(苗字件数だと最多の市)の三須と申します。
自分が自らの苗字を調べた際に目にして以来、気になっていた安芸三須氏について驚くほど詳細に調べられておりましたので感激のあまりコメントさせて戴きましたm(_ _)m
江戸時代では長州藩士(当島代官・蔵元両人役)に三須市郎兵衛という人物が居たそうです。
毛利繋がりで、安芸の三須氏と関係があるのか気になりますね…
三須氏に関して気になる方は案外多く、このサイトにも広島の三須さんがコメントを残されています。
http://www1.ezbbs.net/34/maxmisu/
昔安芸武田氏の水軍を調べていた時に三須氏のことを詳しく調べたことがあります。
熊谷信直の妹が武田光和の嫁に行ったが帰ってきてすぐに三須房清に嫁がせた記憶があります。
城は現在神社跡になっていますが、交通の要所にあった城だったと推測しています。