城データ
城名:二力城(ふたつがじょう)
別名:豆カ城跡・二ツ城跡
標高:483m
比高:253m
築城年:戦国時代か
城主:不明
場所:広島県東区馬木~安佐北区口田南
北緯:東経:34.447089/132.520609
攻城記
蝦蟇(がま)ヶ峠から登っていく。
千人塚があるがそこは一旦行かずに、山頂を目指す。
途中の斜面。
山頂へ行く途中のシダ。
門石のような感じで雰囲気がある。
※実際は違うかもしれない。
山頂(本丸)に到着。
本丸から北の小曲輪。
本丸から西の小曲輪。
周辺の曲輪は藪化が激しく断念。
温品方面。
前方には広島湾が見える。
当時は平野部分はほとんど海であった。
見晴らし台や烽火台には適所。
open-hinataより【ニカ城】
余湖図【二カ城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
1郭からは、西方向の太田川下流域全域及び東方向の福田・馬木まで一望できる。
最高所の1郭から北と西に延びる尾根上にそれぞれ郭を1つ配す単純な構成であり、烽台としての機能が考えられる。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
城の歴史
詳細は不明、1539年9月17日:戸坂に於いて合戦がある(武田と家臣戸坂氏+尼子VS毛利+大内)この時に何かしらの役割果たした可能性もある。
千人塚
戸坂の東に位置する松笠山のさらに東に二城ヶ山があり、その中腹に千人塚がある。
この千人塚は、天文8年(1539) 9月17日に「尼子・武田氏(支配下に戸坂氏も含む)」対「大内・毛利氏」の戦いによって亡くなった戦没者の供養をしたものだと考えられる。
この時期を含め前後にこの松笠山周辺での戦闘は大永7年(1527)の松笠山合戦と天文8年(1539)の戸坂合戦しかない、しかも、尼子方が参戦したのは後者のみである。
千人塚の伝承には、「麓の「菰口」の地名は現在の島根県の温泉津地方(島根県大田市温泉津町荻村菰口)に由来した」、などのいわれがあり雲州との関わり合いが深い。断定は出来ないが天文8年の戦の犠牲者が千人塚のいわれがあり、埋葬され千人塚と後に呼称された可能性は多分にある。
戦後まもなくは、千人塚あたりまで下草刈り場だったので大きな木が育っておらず、子どもたちのの遊び場であったという。
しかし、その後は柴刈りも行われず、植林もされたために大きな木が生えており、場所の特定は困難だったが、現地調査を行いほぼ位置を特定できた。山麓付近には延命地蔵(供養地蔵)などがある。
菰口にある延命地蔵の看板。
入口には標識があるが、これが道がなく千人塚に行くのに苦労した。
詳しい方の案内で何とか現場に到着。
山の中におびただしい石が積まれた塚が出現。
経塚や経石か。
『芸藩通志』に以下の記載がある。
千人塚 馬木村にあり、壙(あな)三あり、みな盤石をもて、其上を覆ふ、傳云、當村二城陥るの時、雑兵の骸を、此に葬ると、その
壙の側に、經石数多あり、俗に經塚ともいふ。
千人塚の由来伝承
千人塚には、次のような由来伝承が伝わっている。
●二カ城が落城して多くの雑兵が亡くなった為に千人塚として供養した。
●塚の石は太田川から取ってきた。
●麓には延命地蔵があり、戦で亡くなった者を供養するために出来たと伝えられる。
●地蔵から真正面の山へ直線で行ったところに千人塚がある。
●麓の「菰口」の地名は現在の島根県の温泉津地方(島根県大田市温泉津町荻村菰口)に由来し、尼子の敗軍兵が千人塚を供養するために住みついたため出身地名をあてた。敗軍兵の子孫はもともと山の中腹に住んでいたが、後に麓付近に出て来た(明治ごろ)。
●昔は里山で山の中腹までは柴刈りのため木は生えていなかった。子どもはこの千人塚でよく遊んでいた。
●今では植林や柴刈りがないため木が生えて大きくなり、千人塚の場所が分からなくなっている。
●昔、この付近で槍や刀が出てきたという言い伝えがある。
菰口
広島市東区温品菰口
島根県大田市温泉津町荻村菰口
『芸藩通志』馬木村
『芸藩通志』にも千人塚の記載がある。
所感
●城というよりも見はり台という感じ。
※確かに標高も高く見はりには最適。
●本来の目的はこの地で争い亡くなった千人塚を調査する事であったが現場に行く方法も不明で後日別の方に案内された。
●戸坂氏の調査の過程で行った山城。
関連URL
戸坂氏とのかかわりがあるかもしれない。
参考URL
参考文献
『芸藩通志』
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
公開日2021/05/01