城データ

城名:旗返山城

別名:三若江田城、江田城、昌通城

標高:420m

比高:200m

築城年:不明

城主:江田氏

場所:広島県三次市三若町

北緯:東経:34.715027/132.881591

旗返山城はここ

 

 

攻城記

麓の看板。

 

旗返山城跡

麓からの高さは200m、東・西・南は急斜面で天然の要害となっていて、典型的な戦国時代の山城です。頂上の主郭(本丸)には井戸跡も残っています。L字型に配置された郭が南にのびており、一部には石垣も残っています。城の北西部は複雑な堀切と竪堀で防備され、堀切の底には人頭大の石が多く散乱していて籠城合戦に備えたものと思われます。

旗返山城は美波羅川の中下流一帯をした江田氏が本拠とした城で、江田氏は吉舎・三良坂を支配した和智氏と同族でしたが、戦国時代毛利・尼子の対立の中で、尼子方に味方した江田隆連は天文22年(1553年)毛利元就によって滅ぼされました。本城の南方国道375号線を挟んでそびえる陣床山城は、このとき毛利軍が陣地を構えた城です。

江田氏を滅ぼした毛利元就は、大内氏を倒して実権を握った陶氏に、旗返山城の受け取りを求めましたが、陶氏は毛利家の力が大きくなるのを警戒して家臣の江良氏を城番としました。このことが、毛利氏が陶氏を倒す原因になったともいわれてます。

三次市教育委員会

 

道なりにいけばこのような標識がある。

立派な矢竹。

本丸を見上げる。

藪化もされてなくてよい。

本丸西の帯曲輪。

井戸跡。

井戸跡付近の石組。

旗返山城本丸。

本丸。

景色は最高。

本丸の東にある帯曲輪。

本丸南の曲輪。

石垣の跡もある。

L字の奥に進んでいく。

ここにも石垣ある。

南東部分の曲輪。

向かいの山は毛利軍が陣を張っていた陣床山城が見える。

曲輪の加工もあり、また石垣もあり非常に戦国時代の山城としてぴったりの城。

 

白糸の滝

白糸の滝
旗返山城の南西麓にある白糸の滝は「山上より直下五丈ニ尺、これを雄滝とよぶ、下流横に巌上を通ること約一町にてまた直下する三丈五尺、これを雌滝とよべり」(芸藩通志)というもので、滝壺の水は眼病に効くといいい、延宝年間(1673~81)三谿郡代官野間久兵衛の母の眼病がこの滝に詣で快癒したと伝えられる。

少林山祇園寺

少林山祇園寺
真宗大谷派の少林山明法寺は、始め祇園寺と号し旗返城主江田隆貫の帰依した寺であったが、慶長10年(1605)真宗に改め明治13年(1880)寺号免許という

 

open-hinataより【旗返山城】

 

余湖図【旗返山城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』旗返山城

拡大図

隣に毛利元就が陣取った陣床山がある。

 

 

城の概要

最高所の郭は45m×35mで背後(北側)に土塁と堀切を配している。

そこから東・南西方向に郭が延びており、南西方向に延びた郭はそこから南東方向にL字状に曲がっており、南辺部にある土塁状の通路で
先端へと連絡している。

本城跡は江田氏が居城したと伝えられる。1553(天文22)年には、尼子方についた江田氏に対して毛利氏らが攻めよせ落城した。

広島県中世城館遺跡総合調査報告書より引用

 

 

蛇行しながら北流する美波羅川が有原・三若・石原付近で比較的広い水田地 帯を形成しているが、本城は、この一帯を眺望する位置にあり、この付近は江 田氏の勢力圏の南端に近い。

 

城の南約一皿には、本城攻略のための毛利元就の陣地である陣床山城があるほか、美波羅川の対岸には、旗城・大番城・重宗山城がある。

いずれも城主や城の由来は明らかではないが、大番城は城の状態からみて臨時に築かれたものとみられる。

 

立地および城名からみて、大番城の南にある旗城は本城と関係 があるようで、『芸藩通志』の絵図は旗城の位置を旗返山古城跡と記しているが、 これは旗城の誤記とみられる。

 

その名称から旗城と旗返山城は対になっていることを想定させ、おそらくは、ともに尼子・江田方の城であろう(『毛利三代実 録』に、「尼子ノ兵三若城ヲ守ル、我附城ヲ築キ兵ヲ置キ之レニ備フ旗返城陥リ晴久敗レ帰ルニヨリ守兵夜囲ヲ潰シテ走ル」とあり、旗返山城とは別に尼子方が三若城を築いたとしている。これらのことから旗城は尼子方の三若城のこ とではないかとみられる)。

 

江田氏が、いつ本城を居城としたのかは明らかではないが、『芸落通志」に、 「太平記に、山門攻の時、江田源八泰氏、力戦せしことを戦せり、泰氏は富(當の誤記)郡、天良山旗返山などに城居せり⋯⋯」とあり、また「江田氏、天良 山より此に移居るといふ⋯⋯」とある。

 

同族の和智氏が十四世紀後半にはすで に和知から吉舎の平松山城・南天山城に本拠を移しており、江田氏もこの頃に はすでに移城していたのではないかとみられる。 『芸藩通志』によると、江田源八泰氏が居城していたとしているが、ほかに 『西備名区』には、「三若江田城江田源八兵衛尉」の記較がある。

 

江田氏の滅亡については根本的な史料(「関間録』『平賀家文書』など)があり、 また『陰徳太平記』の「備後国泉合戦之事」「祝城没落之事」などによってうかがわれる。

 

すなわち、江田氏はもと大内氏に属していたが、大内義隆が陶晴賢に討たれるに及んで江田尾張守隆連が尼子方に属したため、天文二十二年 (一五五三)七月十三日に毛利元就らははじめに旗返山城の支城の高杉城(祝城) を攻略し、ついで本城の攻略を進めたので、主将の江田尾張守隆連をはじめ江 加賀守・古屋宗兵衛・増原某らは立て籠もっていた本城を十月に捨て、城 りた尼子氏の授兵と共に山内隆通のもとに逃れた。

 

その後、元就は部下の将を入れたいと懇請しているが、陶晴賢は自己の部将江良房栄を入れた。

 

本城は、東西から谷が入り、背後が鞍部となり、比高も大きく較鹼で、山頂 は北側の本丸と東側の②郭が高所となって「1」字形を呈する地形を利用して 郭を配置している。 ①郭は本丸で四五mメ三五m、北側二か所に土塁を設け、南側に④郭および ②郭に連絡する通路があるほか、西側にも④郭への通路が下っている。

 

また、 この部分には井戸がある。②郭は①郭の東にあって、その西南部分は④郭と同 様に幅五ー六mと幅が広く、その先端を南に⑤郭に下る通路がある。③郭は②郭の東にある一五m×五mの郭で、西南部は②郭につながっている。

 

④郭は① 郭の西および南に幅六~八mで「L」字形に設けた郭で、北曜に前述の井戸が ある、④郭の前に約五m下る⑤郭は、中ほどでまた一mほど下っている。

 

⑥の郭は⑤郭からさらに六m下った二五m×二三mの郭で、⑤および東構三m下の⑦郭とは東北間に通路があって連絡している。

 

また、東南隅にもの部か ら上る通路を設けている、ここから尾様は、直角に来に延びて⑦~⑪郭および 小郭を配置しており、⑦郭は⑥郭の南、東側直下および⑧郭の方向に延びて鞍部に設けた郭である。

 

なお、⑥郭の南側下にあって西に続びている⑦郭の下に は、小さな捨郭を二か所設けている。

 

⑦の郭から東にしだいに高くなって、そこに長方形あるいは正方悪に近い第を 際た式に配置し、道路をいずれも商朝にとってき事との比高差も少なく、北個 の気群とはやや感を異にする。

 

⑧郭は⑦郭から一・五m高く、一〇m×一二mで、⑨郭は⑧郭から約三m高く、三〇m×一五m、⑩郭は⑨郭から二・五m高く、九m×一五m、⑪郭は⑩ 郭から二m高く、一八m×一八mを測る。

 

さらに二~三日下って二つの郭があるほか、その下にも小郭を配置し、尾根幅が狭く、また数十ま下って尾根部が なくなる部分に見曇り用と思われる郭を設けている。

 

江田氏一族の墓は、有原の長門寺跡にある古墓であると伝えられている。

『日本城郭大系13』より引用。

 

 

江田氏について

江田氏は広沢氏の庶流である、広沢氏は、相模国波多野荘(神奈川県秦野市)を本貫の地とする波多野氏から分流した武士である。

波多野氏はもともと京都の貴族出身で、平将門討伐や近江の三上山の大百足退治で有名な藤原秀郷(俵藤太)を祖とし、中流貴族として関
東地方の国々の国司を歴任したのち、藤原摂関家の所領となっていた波多野荘の預どころ荘官として同地へ土着して武士となったものであ
る。

 

広沢氏が備後国に移住するきっかけとなったのは、承久の乱の功で新たに三谷郡西方を賜り、その支配権が三谷郡全域に及んだことであった。一方、源家将軍が断絶したのち、執権北条氏の力が強大化し、多くの御家人は鎌倉を離れて地方の所領へ下って勢力を維持しようとする動きもあった。
ともあれ、広沢家惣領家は新たにえた三谷郡西方を実村に与えて現地に移住させ、同時に三谷十二郷の代官に実村を任じたようだ。かくして、広沢実村が備後国に下向し一族が三谷郡に広まることになる。当時の武士は惣領を中心とした分割相続制が基本であったため、実村は所領を分割して長男実綱に江田荘を、二男の実成に和知荘与え、両者はそれぞれ江田・和智を名乗った。以後、江田・和智両氏は備後の国人領主として戦国時代末期まで存続するのである。

 

 

江田源八の活躍

三次市東南部を流れる美波羅川沿いに勢力を張る江田氏も、三吉氏と同じように尊氏軍に属して戦い、比叡山での活躍 ぶりが伝えられている。 湊川(兵庫県)の合戦での楠木軍の敗北を知った後醍醐天皇は、京都を脱出して比叡山に籠り徹底抗戦を試みた。

 

一方 尊氏は京都に本営を置いて越前の斯波氏・近江の佐々木氏らを動員して東方から比叡山を攻めさせると同時に、足利軍も。 叡山根本中堂を攻めたが、その攻撃軍の中に「備後国の住人、江田源八泰氏」も加わっていた。

 

『太平記』一七(山攻事付日吉神託事)によると建武三年六月六日、叡山の僧兵が山中の四郎谷の南、箸塚近辺を死守している所で、江田源八泰氏 が叡山の僧兵杉本大夫定範との一騎打ちをした様子が名調子で華々しく語られている。

 

《尊氏軍。数万の中より只一人備後国住人、江田源八泰氏と名乗て、洗革の大鎧に五枚甲の緒を縮、四尺余の太刀所々さび。(銷)たるに血を付て、まっしぐらにぞ上たりける、是を見て、杉本の山神大夫定範と云ける悪僧、黒糸の鎧に龍頭の甲の緒をしめ、 大立挙の髄当に、三尺八寸の長刀茎短に取て乱足を踏み、人交もせず只二人、火を散してぞ斬合ける、源八遥の坂を上て、数箇度の戦に腕緩く機疲れけるにや、動ればうけ太刀に成けるを、定範得たり賢しと長刀の柄を取延、源八が甲の鉢を破よ砕よと、重打にぞ打たりける、源八甲の吹返を目の上へ切さげられて、著直さんと推仰きける処を、定範長刀をからりと打棄て、走懸てむずと組、二人が踏ける力足に、山の片岸崩て足もたまらざりければ、二人引組ながら、数千丈高き小篠原を、・上になり下になり覆けるが、中程より別々に成りて両方の谷の底へぞ落たりける。

 

この江田泰氏については、当時の他の史料には見られないが、後世の地元資料『備後太平記』に、同年二月の事として 尊氏が九州下向の途中、尾道に寄ったとき近郷の豪族が集結した中に同氏の名前が見られる。

 

また、少し時代が下るが同 書で暦応三年(一三四〇)に尊氏の庶子足利直冬が鞆(福山市)に本拠を設けたとき駆けつけた武士の中に、同氏の名前がみられるが、直冬の備後国下向は貞和五年(一三四九)である。

 

足利軍の比叡山攻撃は功を奏して後醍醐天皇は和議の受け入れを余儀なくされ、建武三年一一月天皇は「三種の神器」を光明天皇へ譲り、尊氏は建武式目を制定し政治の実権を握った。

 

しかし、後醍醐天皇は一二月ひそかに吉野へ逃れ、町幕府の始まりであると同時に吉野(奈良県)の南朝と京都の北朝が対立する「一天両帝、南北京」今大乗院日記日録』 いわれる「南北朝」時代に入り、以後約六〇年にわたり全国を動乱の渦に巻き込んだ。

 

鎌倉幕府を倒したのは諸国の在地 武士の力に寄るところが大きかったが、建武の新政は在地武士が期待したものではなかったため失望をもたらし、備北の武士たちも最初の天皇方の立場を早くから放棄していた。

 

 

江田氏の滅亡

戦国時代には江田隆連という人物が当主としていた、「隆」という名から大内義「隆」からの偏諱と思われるが、最終的には尼子方の工作により、尼子晴久に寝返る。

 

1553年(天文22年)に尼子氏の南下が起こり、様々な戦が展開されるが、結局は傘下の城であった高杉城陥落後、毛利勢は江田氏の本拠三若の旗返城へ押し 寄せ、元就は旗返城の南の陣床山城(地元では対嶋とよぶ山塊の一部)に本陣を置き、陶氏からの援軍も合わは て江田氏の退路を断って包囲作戦をとるが、城内に詰めていた尼子の番衆が 一〇月一九日夜陰にまぎれて城を脱出して逃れ、城主江田隆連もそれと行 ともにして山内隆通のもとへ走り、江田氏はついに滅んだ。ここに尼子の 備制覇の宿願はまたもや失敗し、尼子勢の備後国への南下はこれが最後となった。

 

 

城の歴史

13世紀後半

広沢氏から分流した江田氏が始めその支配領域の最北端向江田に本拠を構えたが、その後領域最南端にあたる旗返城に本拠を移動させた

1336年(建武3年):江田源八泰氏が足利尊氏の軍に属して比叡山の僧兵杉本太夫定範と一騎打ちをしている(太平記)
1552年(天文21年):尼子氏の密命をうけた坪内宗五郎(出雲の商人でまた出雲大社の大麻を配る使者)の工作により江田隆連が尼子に寝返る。
1553年 (天文22年):4月毛利軍と尼子軍(江田氏)が寄国(三良坂町、三次市石原町)にて最初の合戦
5月大月、向泉(庄原市口和町)にて毛利軍と尼子軍が合戦
7月味方の城であった高杉城陥落
          10月旗返城落城 江田隆連は城を抜け出し山内家に逃げる
※陶晴賢家臣の江良房栄が城代となる
1554年(天文23年):江良房栄が陶晴賢によって暗殺される
1555年(天文24年):毛利元就が陶晴賢に対して反旗を翻す 毛利元就の甥にあたる敷名元範が旗返山城の城代となる。

 

城主家系図

 

初期の江田氏

 

戦国時代の江田氏。

江田隆連の妻は三吉氏であり、また、毛利元就の側室である三吉の方も三吉氏である。

 

所感

●比高が高く非常に攻めにくい城であったと思われるが大軍である毛利軍の前に落城した、本来であれば城を攻めた毛利氏がその支配をする予定であったが勢力拡大を恐れる陶晴賢が拒否して江良房栄を城代とした。

※その為に毛利元就はこれを不服として厳島合戦に繋がったとされる。

 

●最初どのように行っていいか分からずに山の裏の方から行ってみましたが到底到達できず、正攻法で谷筋を登る。

 

●山頂に到着すると登山道が整備されており、正規のルートがきちんとあった。

 

●この旗返山城の戦いにて小奴可亀山城主である宮隆盛が討死している。

 

●江田隆連は最終的には出雲に逃れている。

 

※子孫は健在。

 

 

関連URL

【広島県】高杉城【三次市高杉町】

江田氏の支城としての機能を有していた城。

 

参考URL

城郭放浪記(備後旗返山城)

武家家伝(和智氏)

 

参考文献

『芸藩通志』

『日本城郭大系13』

『三次市史 第一巻』

公開日2021/4/29

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