城データ

城名:高杉城

別名:祝城,杉山城

標高:170m

比高:5m

築城年:観応年間(1350~52)

城主:祝氏

場所:広島県三次市高杉町

北緯:東経:34.777725/132.899258

高杉城はここ

 

 

攻城記

現在は神社となっている。

神社前の看板。

 

戦国時代の三次盆地は山陰側の尼子氏と山陽側の大内氏・毛利氏が激しく抗争した地です。
その中で、この地方の武将である三吉氏・和智氏・江田氏はどちらの勢力につくか不安定な日々でした。
1553(天文22)年、尼子氏に味方した江田氏は毛利元就の攻撃を受けます。

江田氏の支城であった高杉城には城主祝甲斐守・治部大輔を中心に約1000人が籠城していました。
この時代には、城はほとんど山頂に築かれていましたが、知波夜比古神社の神職を兼ねる祝氏は、神社を中心にこの丘を三重の空掘と土塁で囲み城としたのです。

7月23日、この城の東北(塩町)から毛利元就・隆元の軍勢、西から吉川元春の兵士が攻めかかります。
軍記の「陰徳記」には、その時の様子を「城兵、矢間を開き散々に射る。寄手(毛利軍)三重の空掘を超え、一度にどっと塀につくところを城兵とも鑓・長刀をもって突き落とし」として激しく抵抗するが、そのうち「粟屋弥七郎唯一少しも引かず、当城一番乗りと名乗り塀際の榎に取り付き、曳やっと声をかけて」攻め、ついに毛利全軍が突入し、逃げる兵士を討ち取ったのです。

軍記には討ち取られた首が約600とあり、ほぼ全滅の状態でした。城跡の南の山際には、この時討ち死にした城主祝氏を供養した宝篋印塔があります。

看板の奥に堀が見える。

 

県史跡 高杉城跡 

高杉城跡は標高約170mに位置し、高杉の河岸段丘を利用してつくられた本丸内に神社をもつ特異な形式の平城です。この城は別名を祝要害、杉山城ともいい、中世この地方の国人領主であった江田(広沢)氏と関係の深い知波夜比古神社の祝氏が拠ったところで、江田氏の支城です。

本城の規模は現在の神社の境内を囲む南北約70m、東西約50mの範囲には土塁があり、その外側には東・西・北の三方にも堀が廻っています。土塁は幅3~4m、高さ1~2mで盛土したものらしく、部分的には石積みも残っています。堀は北西から東南へわずかに傾斜し、排水が考慮されたことがうかがえます。

本城跡の築城時期や城主については明らかではありませんが、祝氏との関係から観応年間(1350~1352)頃に構築されたものと考えられます。尼子方の本城は天文21年(1552)に毛利氏との戦いにより攻め落とされ、祝甲斐守父子は滅ぼされています。その後、弘治2年(1556)毛利元就、隆元父子によって本殿(市重文)が再建されています。このように本城跡は城郭としての機能は失われても神社はすぐに復元され、元の姿は保存されたことが推察されます。

 

周囲の堀。

かなり埋まっているが当時は深い堀であったと想像できる。

 

周辺は藪化している。

城域南部分。

城域東部分。

東部分の土塁跡。

西部分の土塁跡。

南部分の石垣(おそらく後世のもの)

 

open-hinataより【高杉城】

 

余湖図

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

芸藩通志図高杉村

 

 

拡大図

古城跡と祝氏の墓所も記載されている。

高杉城付近にある、祝甲斐守の墓。

芸藩通志にも記載がある墓。

 

城の概要

城の範囲は370m×250mの丘陵全体に広がるとも考えるが、遺構が確認できるのは知波夜比古神社境内を中心とする70m四方である。

境内の周囲に堀と土塁が残存しており堀は幅4~5m、土塁は高さ1~2m、幅3~4mである。

城主は祝氏と伝えられ、1553(天文22)年に合戦が行われている

広島県中世城館遺跡総合調査報告書より引用

 

南から比高約五mの微高地が延びる当地一帯は、肥沃な水田地帯として早くから江田氏の勢力下にあった。

 

本城の築城年代は明らかではないが、観応年間の石見国三隅城の合戦に祝新 はふり 衛門の名がみられる。

 

この祝氏は現在、本城の遺構の残る場所に鎮 る式内社の知波夜比古神社の社司で、本城はこの神社を中心として堀・土塁を 設けて沼城としている。

天文二十年(一五五一)、大内義隆が陶晴賢に殺害され、大内方に属していた すえはるかた 江田氏は、これを機会に尼子氏に属することになったため、同二十二年七月二 十三日、祝甲斐守・同長門守を将として宗徒二百余騎ならびに久代修理亮の加 勢百騎、その他雑兵ら合わせて七百五十余が立て籠もり、これを毛利・吉川・ 平賀・宍戸・熊谷・天野・香川氏などの国人衆六千余騎が取り囲み、祝氏父子 は戦死し、城は陥落した。

 

三吉致高は神像を作り、弘治二年(一五五六)、焼失 した神社を修復している。

 

城は、周囲が水田地帯であり、比高約五mの沼城で、『陰徳太平記 三重の空堀をめぐらし、塀を構えていたと記載されているが、現在は神社の周 囲約七〇m×七〇mに堀と土塁が残って、神社背後の平坦地は畑地となり、城 域の範囲は明らかでない。

 

堀は幅四・五-五m、土塁は幅約三m、高さ約一・ 五mで、北西・北東側はよく遺存し、西南側は堀の部分が道路となり、東南側 にも高さ一・五mの土塁が残っている。

 

なお、この東南側は約三m下って市道 までの間に約二八mの平坦地となっており、この場所も郭としていたのであろ う。また西南約五〇mにも、土塁の一部とみられる部分がある。

 

本城の跡は、「土居の内」と呼ばれているほか、「前ではり」「後ではり」「倉 屋」「胡面」「大日市」などの古地名が残っており、南方約五〇〇mには天文二 いの高杉城攻略の際の供養塔であろうか、祝氏の墓と伝えられるも っている。

 

 

城の歴史

築城年は観応年間

築城者は祝新左衛門尉氏正

1553年(天文22)4月、江田氏が大内氏から尼子氏に叛旗を翻す。

5月:大月、向泉(庄原市口和町)にて毛利と尼子の戦いがある

7月:戦いの場が高杉城へ移り 750人籠城するもほとんどが討死する。高杉城陥落、城主である祝甲斐守父子滅ぼされる。

 

陰徳太平記によれば
毛利軍は6000余騎の軍勢で城の大手である東南からは吉川元春、宍戸隆家、東北からは元就、隆元親子が城を囲んだ
城中は江田本軍200余騎、久代氏(庄原市西城町の久代宮氏)の加勢100騎 その他雑兵ら計750人が立て籠っていたが攻めてて落城した
600余りが討首となった(80%が討首でほぼ壊滅状態であった)

 

10月:旗返城陥落

 

1554(天文23)年10月:三吉到高、隆亮親子は祝善兵衛への宛行状で祝広縄の知波比古神社神主職を認める。
また1554年にあった厳島合戦において戦功をあげた高杉小四郎に毛利元就、隆元から感状を与えている。

高杉小四郎は恐らく高杉城の落城において武田姓を捨てて在地名である高杉姓を名乗ったものと考えられる。
※小四郎は善兵衛高家の子供か丹後守広縄であろうと考えられる。

 

1556(弘治2)年:毛利元就・隆元父子によって本殿が再建された(三原の沖から海砂を運んで境内を清めて再建)

 

1591年:毛利氏からの知行には高杉小左衛門(小四郎の息子か)が3.670石を賜っている(3石余りとは余りにも少ない)

 

高杉城の合戦

六月一〇日、山口の大内義長は毛利氏加勢の軍勢を送ってきた。『安西軍策』によると、 はじめ陶隆房が軍勢を率いて来たが、老母の病気のため帰国し、その後江良房栄・内藤興盛ら六千の軍勢を三次へ送って きたという。

 

元就はこの援軍は北の甲山城の尼子・山内軍の南下を防ぐために和知(三次市)・向江田(同)あたりへ布陣 させて、江田氏攻略の実戦には加わらさせなかったようである。後日の論功行賞のことを配慮してのことであろう。 七月二三日、毛利勢は江田氏の出城高杉城(高杉町)を包囲して攻め、城主武田(祝)甲斐守以下を全滅させた。

 

毛利勢の中には三吉氏の軍勢も加っていた。 高杉城は中世には珍しい平地に作られた城で、高杉の丘陵から北へ舌状にのびる比高五以ばかり地元でぶ河岸段丘上に立地し、知波夜比古神社と城が一体となった構造で、城主武田氏は神主すなわち祝職を兼ねていたことから祝城とも、また城内に杉の巨木があったため、杉山城ともいった。

 

現在は神社境内となっている地域が城の本丸となっていた所で、三五〇好×二七〇好の面積を持つ「段」全体が城域 になっており、城の西側を流れる芋面川や東側を流れる岩倉川の二つの小川や、近くを流れる美波羅川の河岸を切れば、 「段」と呼ばれ、城の周囲を沼地にすることも可能であったと思われる。

 

現在も神社本殿の裏には土塁や堀跡が残り、堀からは鉄製の鎧の一部も発見されている。 『陰徳太平記』などの軍記物語によって戦いを再現してみると、毛利軍は六千余騎の軍勢で、城の大手のある東南から は吉川元春・宍戸隆家軍、東北からは元就・隆元親子の軍が城を囲んだ。城中には江田本軍二百余騎、久代氏(比婆郡受 城町)の加勢百余騎、その他雑兵ら計七五〇人が立て籠っていたが、毛利勢は「三重の空堀を越え」土塀を「青竹に鹿の 角を結び付け、五十余人に持たせ塀へ付けて、斉しく一度に曳や引崩し」て城内へ入り、甲の城戸を破り甲丸(本丸)を占拠した。

 

陰徳太平記

祝の城没落之事

同き七月二十三日元就江田が端城、祝の城(高杉)へ押寄せ鬨を作て攻られたり城の尾崎は吉川勢、左の方は吉田勢、右の方は平賀隆宗(広相)、 宍戸隆家、熊谷、天野、香川、飯田、已下の国土、各々攻口を請取、一勢々々権を突き連ねて攻上る。

 

城中には祝甲斐の守、同治部の大輔を先として、宗徒の兵二百余騎、并に久代修理の亮か加勢百騎、其外雑兵等七百五十人楯籠りけれは、矢窓(さま)を開て散々に射る。

 

寄手三重の隍(からぼり)を越へ、一度に突(とつ)と塀へ付く所を城中の兵共鎗長刀を以て切落し突き落しける間、さしもの寄手隍(ほり)際へ颯と引く、後ろより元春藤の丸に三っ引両の旗押立、懸かれ々々と下知し給ふ間、宮の庄次郎五郎元正、今田上野の介経高、桂 粟屋 山県、森脇、境、井の上の士卒、又塀へ付たりけれは、城中より又射立突立ける程に、寄手本の所へ引退く。

 

 

かっりける所に、粟屋弥七郎は唯一人少も不レ引、当城の一番乗り粟屋弥七郎と名乗り塀を生ひ抜けたる榎の木の有けるに取付、 えいやつと声をかけて越んとする所を、敵鎗を以て真中寸と突貫きける故、さしも鬼神の様也し粟屋も、真逆に落にけり。

 

元就父子三人も已に隍(ほり)を越塀へ付て直くに乗り越ぇんとし給を見て、諸卒堀格子を切破り、攻入んとする所を、敵鏃を揃え鋒(きっさき)を井べて射落し突落しゝか共、些も不レ疼乗り越えけれは、城の兵塀裏を颯と引にけり、

 

右の方を屹(きつ)と見れは平賀太郎左衛門隆宗(広相)籠手脚当迄金の甲を著て、薄仏の様なるか五百余人の真先に進み、青竹に鹿の角を結む付五十余人に持せ、塀へ付と斉しく一度に曳(えい)やと引崩し、足をもためず乗り入たれば、真に鬼平賀と号しけるも理り哉と、いかめしかりける拳動片。

 

祝甲斐守等は、甲の丸に引籠り、敵押いれは切出し切出せば押入て、四五度迄は力戦しけれと、多勢に無勢叶はねは、終に甲の城門をも破られ、一番に乗り入たる

 

吉川勢に切てかっり、祝甲斐守、同治部の大輔、同長門の守、何れも至剛に働て、同し枕に討死せり、是を見て名ある者共こそ義を重んして切死をもしけれ、雑人原 共は辱をも人目をも知らはこそ。吾先にと落行けるを、追っ詰め追恵け討っ程に、 通るゝ者は稀也けり。

(下略)

 

 

この戦いで毛利勢が挙げた首級について『陰徳太平記』は「討取る頸六百余級の内、一百七級は元春の手、此中に祝三人の首ありー下略ー』、とあり、なお、『二宮佐渡覚書』には敵の「頸数六百余程御座候、《吉川。元春様御手へ頸百拾一取られ候」、『吉田物語』には「首数の事、御旗本へ七十五、宍戸 殿へ六十三、天野方へ七十一、香川・飯田・山県其外佐東郡の衆へ六十九、 以上五百七十七級なり」とあり、いずれも後世の記録ではあるが、諸書の伝 えるこの数からみても、”虐殺ぶりがうかがえる。

 

現在の知波夜比古神社本殿 は、毛利氏が弘治二年(一五五六)三原の沖から海砂を運んで境内を清めて 再建したと伝え、また神社の近くには武田氏の墓ならびに戦死者の供養塚と みられる宝篋印塔が建っている。

『三次市史 第一巻』より

 

祝職・武田氏

この戦いで高杉城を守っていたのは祝職の武田氏であるが、父の治部太夫高貞とその子甲斐守貞近と宮 内少輔高智は城内に立て籠り、毛利・三吉勢に敵対して戦ったが、同じ高貞の子供である善兵衛高家と丹後守広縄は、 逆に毛利・三吉勢に加って父や兄と敵対している。

なぜ武田親兄弟が敵味方に分れたのか、その理由はよく分らないが、 国時代には、敵味方いずれの側が勝っても家は存続するように、一族を双方へ分けたというが、武田氏もその考え方によっ たものかも知れない。

 

次の武田氏略譜は高杉町の武田家に伝わるものであるが、高貞については「杉山城主、城内明神祝職」とある。 戦いに敗れた父の高貞とその子貞近・高智は討死したが、高家・広縄兄弟は勝者側の毛利・三吉方に付いたため武田家は残ることができた。

 

さらに翌二三年一〇月、三吉致高・隆亮親子は祝善兵衛への宛行状で広縄の知波比吉神社神主職を 認めているし「武田家文書」『県史V』、またこれより以前の同年六月に、焼失した御神体に代わって三吉氏が新たに堺(大阪府)の仏師に作らせた御神体の台座にも三吉致高・隆亮親子の名と共に「社務武田広縄」の名前がすでにみられる。

 

幕末の討幕運動で有名な、長州の高杉晋作より六代前の高杉小左衛門春信が、元文四年(一七三九)に長州藩へ提出した同家の系図などを記した「略系并伝書御奉書」(山口文書館蔵)によると、高杉家の祖先の名は「武田末流高杉小四郎」とあり、「備後国三谷郡高杉邑に住む、故に高杉を称す」とある。

 

また天文二三年六月毛利元就・隆元父子が安芸国明石(廿日市市)における陶晴賢との戦いで、戦功をあげた小四郎に与えた感状には、すでに高杉小四郎と高杉姓になっている(『萩藩閥閱録』巻五九)。

 

文政二年(一八一九)の「小文村国郡志書上帳」今『三次市史Ⅳ』は、村内にある三基の五輪石は祝(武田)氏の墓石で、その由緒について、三吉家の時代に 三谷郡高杉村の城主祝治部太夫が毛利氏のために討たれ、その子孫祝長門守高綱(『芸落通志』には亮綱)が三吉家へ仕え成長の後三百石を与えられ、 小文村へ居住しその子孫は代々同村に住んだと述べている。

 

『三次市史 第一巻』より引用。

 

小文村祝氏の墓。

 

 

芸藩通志にも小文村の祝氏の墓所が記載されている。

 

高杉小四郎感状

於去五日明石口、陶衆と合戦之時敵討捕候、誠高名軸妙候、

感悅之至侯、彌可抽軍忠者也、仍感狀如件

 

天文二三年 

六月一日       隆元 御判

           元就 御判

高杉小四郎殿

『萩藩閥閲録 巻59-1』より。

 

 

 

城主家系図

祝甲斐守の諱は貞近か。

 

城主石高

高杉小左衛門 3.657 安芸 高田

 

所感

●祝(はふり)氏は高杉城跡にある知波夜比古神社の神主だった(神社と城が一体となった構造)

●高杉城は江田氏の支城であった(江田氏の本城は旗返城)

●天文22年(1551年)大内義隆が陶晴賢の謀反によって討ち取られると江田氏は尼子氏に寝返る

●そこで陶氏は毛利を派遣して征伐するその過程で高杉城も陥落した

 

●実は祝氏は武田氏の庶流であって在地名をとって高杉氏になった説もある。(本姓は武田氏)

 

関連URL

【広島県】旗返山城【三次市三若町】

 

参考URL

高杉城(県教育委員会)

城郭放浪記(備後高杉城)

高杉城(ウッキペディア)

 

参考文献

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『日本城郭大系13』

『三次市史 第一巻』

『萩藩諸家系譜』

『毛利氏八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

『芸藩通志』

公開日2021/04/25

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