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城データ

城名:比熊山城

別名:飛熊山城,日熊山城

標高:332m

比高:170m

築城年:天正19年(1591年)

城主:三吉広高

場所:広島県三次市三次町上里

北緯:東経:34.820025,132.839643

Google マップ (Google Maps) で緯度経度を指定して場所を見つける方法

※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。

攻城記

麓にある看板。

比熊山城跡

代々、畠敷町の比叡尾山を居城としていた三吉氏ですが、戦国時代の天正年間(1573~92)になるとこの比熊山に築城します。比叡尾山城を廃墟した理由は解りませんが、おそらく畠敷町の五日市が三次町に移ったので河川交通の発達などから将来的に三次の地を城下町として機能を整備する必要があったのでしょう。

頂上の標高331mの城跡は戦時中に畑に転用されてたとはいえ、全山に郭・土塁・井戸・竪堀の構えを残しています。特に千畳敷と呼ばれる本丸に相当する郭は90*50mの広さで東端には高さ3m、幅5m、長さ30mの基壇も残り相当な建物があったことを想像させます。現在は鳳源寺境内から山道が登っていますが本来の大手道はさらに西の谷にあり、登り切った所には両側を土塁で囲んだ枡形と呼ばれる郭が設けられ正面玄関としての役割を果たしていました。

三吉氏は関が原の合戦で豊臣方に味方した毛利氏の武将であったため、改易となり三次の地を去ります。築城からわずかの年月でしたが、当時の築城技術を知る上で当城は大変貴重な史跡です。

三次市教育委員会

 

三次浅野藩の寺である鳳源寺から登っていく。

道は整備されており普通に登っていける。

登っていく途中に神社の跡がある。

そのままどんどん登っていく。

曲輪は広い。

謎の穴蔵。

途中三次盆地がしっかり見える。

たたり石。

たたり石の伝説
比熊山城(ひぐまやまじょう)は鎌倉時代以来の領主三吉(みよし)氏の居城で東方の比叡尾山城(ひえびやまじょう)から天正一九(一五九一)年頃移った。
この石は「神籠石(こうごいし)」、神様が宿る石として崇拝され 転じて触るとたたりがあると言い伝えられてきた。
寛延(かんえん)二(一七四九)年五月「稲生物怪物語」の主人公、稲生平太郎(いのうへいたろう)少年(十六才)は、相撲取りの三井権八(みついごんぱち)と百物語の肝試しをし、比熊山に登りこの石に木札を結んだ。
その後しばらくは何事もなかったが、七月一日、平太郎をひげ手一ツ目の男が襲う。
その後、三十日間屋敷にはさまざまな物怪が現れ平太郎を襲うようになったのだが・・・
三次市・三次市教育委員会

 

 

1つ1つの曲輪はかなり大きい。

戦時中は畑になっていたようだ。

土塁跡。

畝状竪堀が多くあるのがこの城の特徴。

植林されており下草が生えていないのがいい。

井戸跡。

とにかく城内の面積が広大なのが特徴。

井戸跡?

最後まで広い山城であった。

 

西江寺

麓には西江寺があり、三吉氏最後の当主である三吉広高と福島正則家臣である尾関正勝の墓がある。

 

三吉広高の墓。

五輪塔と宝篋印塔がごっちゃになっている墓。

 

尾関正勝の墓。

福島正則の家臣として三次の地を守る。

尾関山城を築城。

 

位置関係

 

余湖図

 

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』比熊山城

 

 

 

城の概要

北から西城川、東から馬洗川が、南流する江の川と合流する平野部に臨む丘陵上に位置する。
城域は戦時中に畑に転用されていたとはいえ、明確に遺構を残している。
1の郭は90m×50mの規模があり、東端に高さ3m、幅5m、長さ30mの土塁を設けている。
ここから東の郭群には井戸、土塁等が確認でき、中でも2の郭の両辺を土塁で囲んだ桝形と考えられここが本来の大手道で
あったと考えられる。
3は現在神社境内地となっている。城域の西端には2条の堀切で画している。
この堀切の南延長部を西限として10本の畝状竪堀群が残る。
城主は三吉氏と伝えられ、東方の比叡尾山城から天正年間に本城に移ったと伝えられる。

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

比熊山城は、天正十九年に三吉広高が三次市の市街地北方の日隈山に築いた山城で、これまで三吉氏代々の拠城であった畠敷の比叡尾山城にちなんで”日” を”比”に改め、”隈”を”熊”に改めて城名にしたものという。

 

比熊山城が所在する三次市上里一帯は、江ノ川に馬洗川・西城川が合流し、 さらに約一畑下流で神之瀬川が合流しており、備北における軍事・交通上の要 地である。

 

また、これらの河川が天然の濠となり、比熊山城の大手には尾関山 城が築かれていた。 三吉氏は、鎌倉初期にはすでにこの地の地頭職を得ていたといわれている。 その後、鎌倉末期から南北朝の争乱期にかけては、比熊山城の東方四の比叡 田城を本拠に三次周辺を侵略した。隆売の代には八万石を所領したと 備北における強力な豪族であった。

 

比熊山城は、本丸を千畳敷と呼び、その北側の郭群は築城途中であったらし 不備な部分がみられるが、平坦な山頂や東側に延びる尾根の地形を頂 かした山城である。城の入口には、桝形状の虎口を設け、ここから本丸へは階 状に郭を配置し、通路を曲折させたり石段を設けるなど、近世城郭っ る直前の比較的大規模な城郭であった。

 

全体的には未完成のようで、西と南側は削平工事の途中の状態であっ た。東側は削平がすでに終了していて井戸跡もあり、小さな段と細長い段を設 けていた。なお、この郭群と本丸との間には谷が入っており、後世の開墾によ って畑となり、原状を失っている。

 

北の郭群の東端には、南斜面に十本の竪堀と、これに直交する大堅堀を設け ており、さらに、丘陵を分断するために二本の堀切を設けて防備を固めていた。

 

この城は、毛利氏の防長移封に伴い、築城途中で廃城となった。三吉広高は 浪人となり、荺斎と号していたが、その後、広島藩主となった浅野長最に迎え ながあきら られ、寛永十一年(一六三四)に没し、比熊山城の南麓にある西江寺に葬られた。

『日本城郭大系13』より引用

 

城の歴史

1591年(天正19年):三吉広高が比叡尾山城から比熊山城を築城して移動する。
1600年(慶長5年):関ヶ原の戦いにて毛利氏敗北し萩に転封するが、三吉広高は残り浪人となる。

 

城主家系図

城主石高

三吉領

6101.740石

内訳

4838.895(備後 三吉)

1262.845(備後 恵蘇)

 

所感

●鳳源寺の奥から進んでいくが、入口は少し迷うかも知れない、山頂部分はよく整備されており負担無く本丸までいける。
●土塁、井戸跡、畝状竪堀などの遺構が残っているので見ごたえがある
●現在では植林で見えにくくなっているが、当時は木も無かったので見晴らしはよかったと思う。
●三吉高広は関ヶ原の戦いの後で京都で隠棲していたが最終的には浅野の藩主に200石を賜り三次で生涯を終えた。

 

関連URL

【広島県】比叡尾山城【三次市畠敷町】

比熊山城に来る前の居城。

 

参考URL

比熊山城(ウッキペディア)

城郭放浪記(備後日熊山城)

三吉氏(ウッキペディア)

武家家伝三吉氏

三吉広高(ウッキペディア)

 

参考文献

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『日本城郭大系13』

『三次市史 第一巻』

『萩藩諸家系譜』

『毛利氏八箇国御時代分限帳』

 

公開日2021/4/25

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