城データ
城名:布勢天神山城
別名:布施天神山城、天神山城、布施城
標高:25m
比高:20m
築城年:永正10年(1513)か 因幡志では文正元年(1466)山名勝豊によって築城とされている。
城主:山名氏
場所:鳥取県鳥取市湖山南町
北緯東経:35.509527/134.176445
攻城記
湖山池方向から見た天神山城。
天神山城
正面に見える小山は、天神山と呼ばれ室町時代の因幡守護 山名氏の居城・天神山城があった。 江戸時代の地誌「因幡志」には、文正元年(一四六六年)山名勝豊によって築城されたと記されている。
築城の経緯は不明な点も多いが、天神山城は天正元年(一五七三年)、山名豊国が鳥取城に本拠を移すまで因幡国の政治的拠点であり、鳥取城にゆずるまでの約一〇〇年間、因幡 山名氏の居城であった。
城はかって内堀・外堀を備え、内堀は天神山を取り囲む南北四〇〇メートル東西三〇〇メートルの長方形に掘られ、外堀は布勢卯山をも包みこみ湖山池に通じる総延長二、六キロ メートルに及ぶものであった。
外堀の内側には城下町が形成 されていた。発掘調査で土師質土器・中国製の陶磁器・備前焼・古銭・下駄・曲物などが見つかっており、現在でも井戸・櫓跡・堀の跡などが残っており往事をしのばせている。
高校の敷地内を通って攻城開始。
すぐに到着する。
曲輪跡。
山頂は広く削平されている。
井戸跡。
かなり大きな井戸跡である。
本丸。
本丸中心部に櫓台跡がある。
最高所。
堀切跡。
堀切先の曲輪。
近くには湖山池が見える。
五輪塔の残欠がある。山名氏縁のものか。
そのまま降りていく。
天神山城の矢竹。
余湖図
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
天神山城は、布勢集落と湖山集落との中間にある高さ一五mの小山、天神山 にあった。
暦応三年(興国元、一三四〇)、山名時氏が因幡守護職に任ぜ 巨濃郡岩常(現、岩美郡岩美町岩常)の二上山に城を築いて因幡国を支配してから百二十 五年の後、但馬山名から入って因幡山名を継いだ左衛門佐勝豊(山名宗全の次男)は文正元年(一四六六)、この城を築いて移った。
その後、城主は勝豊・豊 時・豊重・豊治・豊頼・豊定・豊数・豊国の八代、百八年に及んだ。
天神山城は湖山の裏山と布勢の卯山との中間にある独立丘陵、高さ一五皿、 南北の延長約一〇〇mの天神山にあったが、山頂には三層の天守櫓が建てられ ていた。また、この天神山をめぐって内堀が造られ、湖山池の水が導入されて いた。
規模は南北約四〇〇m、東西約三〇〇mで、天神山を含めて一二haに及んだ。
外堀は現在の湖山川を利用して、湖山川の河口から天神山の北側を通 って東へ走り、現在の樽恵橋に至り、ここから方向を南に転じ、現在の蓮原街道に沿って吉岡街道との交差点付近に至る。
そしてこの交差点から方向を西に転じて、現在の吉岡街道に沿って西桂見で湖山池に合していた。
したがって、総延長約 二・六畑に及び、外堀内の面積は八四haもあり、そのうちに卵山を抱えていた。
城郭の内外の交通路としては、大橋(湖山集落への交通路)・鐘手橋(大満・ 鍋山城への交通路)・九相橋(大手口、天場繩手への交通路)・築地橋(倉見集落 への交通路)の四つの橋が設けられ、この四つの橋を渡って外郭に入り、さら に内堀を渡って城に至ったものである。
郭のうちには、侍屋敷が卯山(現在、日吉神社のある山)の北・西の地域 り、町屋は同じく東・西の地域に設けられ、寺院は卯山一帯に築かれていた。
河徳・古学院・勝禅院・仙林寺・功徳院・清浄院のほか九か寺の寺院が建立されていたという。
また、鍛冶町・上藤小路・傾城町などが字名として残っている。
城の歴史
天神山城は因幡国の本城であったため数多くの出城があり、老臣た ぞれの出城を預かっていたが、その主なものは、徳吉城=徳吉将監、秋里城=秋里玄番允、鵯尾城・鳥取城=武田高信、新山城=中村伊豆守、正木ケ鼻城・足山城=正木大膳などであった。
天文十五年(一五四一)、山名誠通が守護職の時、一族の但馬山名氏と国境問題で争いとなり、但馬山名氏の侵入に備えるために、同十四年二月、鳥取久松 山に出城を築いた。しかし同十七年、但馬の山名祐豊によって奇襲され、天神山城は焼かれ、誠通は敗軍の中に討死した。
誠通には二人の遺児、源七郎豊成 弥次郎豊次がいたが、二人とも幼少であったため、老臣たちは但馬山名氏と和睦することを上策とし、祐豊の弟豊定を後見役に迎えて、因幡の守護代とした。
その後、永禄六年(一五六三)、鳥取城の定番武田高信は因幡の主導権を手中 に収めようとし、布施の尾形に背き、国侍を利によって誘い、しだいに勢力を 拡充していった。
その頃、伯耆では毛利氏が進出し、伯耆の山名氏の勢力は寸断されるに至った。
この毛利氏の東進に対応するため、山名豊成は鹿野城(気高郡鹿野町)に移ってこれに備えたが、高信はこれをみて美女を送り毒酒を巧 みに勧めて豊成を殺し、さらに、高信は豊次を立見峠に挾撃してこれを討ち取ったので、因幡山名氏の命脈はここにまったく滅んだ。
山名氏から入った豊定の子豊数は、武田高信の勢力を打倒しよ ったが果たさぬままに病死した。
そして弟豊国が跡を継いだが、戦局を好転さ せることは困難であった。
この頃、尼子氏の遺臣山中鹿之助は主家再興のため 因幡に転戦し、なんとかして勢力を扶植しようとして豊国を助けて武田高信を 討った。
すなわち、元亀三年(一五七二)、高信を甑山城(岩美郡国府町町屋)に破 り、いわゆる「たのも崩れ」によってその勢力を撃滅し、鵯尾城に追放した。
豊国は居城を天神山より久松山に移し、鳥取城を因幡の本城とした。時に天正 元年(一五七三)冬のことであった。
『日本城郭大系14』より引用
城主家系図
青が因幡山名氏、赤が但馬山名氏。
因幡山名氏は豊成、豊次が武田高信によって殺され、但馬山名家から豊定が入り、豊教や豊国と継がれる。
位置関係
所感
●平城に近い山城であるが守護の力が強い時はこの城館のような城でもよかったと思われる。
●湖山池を水運利用として活用、また近隣にも支城を多く配置している。
●今はないが堀を巡らせており防御態勢はきっちりと確保されていた。
関連URL
武田高信立て籠もり山名豊国がこれを征伐した時の城。
天神山城の支城の1つ。
山王社裏山城と支城を形成して防衛ラインの構築を図っている。
参考URL
参考文献
『日本城郭大系14』
『因伯の戦国城郭 通史編』高橋正弘著
『鳥取県の地名』
公開日2021/03/20