城データ
城名:今木山城
別名:今衣山城
標高:89m
比高:70m
築城年:戦国時代か
城主:秋里左馬允によって築城 後に福田氏・菅沼氏・山田氏が在城。
場所:鳥取県鳥取市国府町法花寺
北緯東経:35.467206/134.273647
攻城記
まずは今衣神社を目指して攻城。
今衣神社の本殿
不思議な石がある。
神社本殿の裏山を直登すると削平地が現れる。
城域は概ねこのような感じである。
加工度は低い。
三角点があるのでここが本丸と思われる。
今木山城の矢竹。
法華寺跡
今木山城の近隣に法華寺跡がある。
奈良時代に国分尼寺があったらしい。
古い時代の五輪塔もあり今木山城城主である秋里氏に関わりがあるのかもしれない。
日常上人の産湯の井戸。
余湖図
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
国土地理院から
城の概要
法花寺集落背後の標高八八・九メートル(比高約七〇メートル)の独立山塊上にある。
小山だが勾配は各方面 1を選んでいる。東を除く各方面に五本の支尾根が発達し、南東を除きいずれも遺構が検出された。
主郭(三〇×一三メートル)は菱形で、北東三角点の標在が埋設されている。
中央は岩盤質で東側に路頭しているため、南北間で一メートル内外の段差がある。
南には一・五メートルの段差で八×七メートルの曲輪が 連結する。
さらに鞍部を経て、九×六メートルの平坦面に一二×六メートルの削平地が連なる。
この一郭から西南へ尾根が分かれ、図中の遺構が確認された。
西尾根では比高差八メートルのところに堀切状の凹地と、幅六× 八メートル、長さ四〇メートル内外の平坦面が認められたが灌木にはばまれ詳細は不明である。
一方、主郭北にも三段の曲輪が配され、特に末端部(一・四×八メートル)は岩盤上にあって急勾配であっ た。
この西からも尾根が分岐し、大小四段の曲輪群を認めた。また主郭西下八メートルのととろから分岐する尾 車最大の曲輪(三八×一〇メートル)と一三×八メートルの二段の曲輪を発見した。
ただし縄張りは単調である。直線的に曲輪配置がなされるだけで補助的な曲輪や空堀はほとんど見られず、遺構も八合目以上に偏る。
近年まで居館部と思われる土塁が北西麓に残存していたことを考えると、山城部は恒常的に いわゆる「詰の城」として用いられたものと思われる。
国府町誌より引用
山頂に主郭を置き、派生する尾根に郭を配置している。『因幡志』によると秋里佐馬允が天正年間に築城し、以後、福田氏・菅沼氏・山田氏が引き続いて在城したとある。
鳥取県教育委員会『鳥取県中世城館分布調査報告書 第1集(因幡編)』より引用
城の歴史
天正年間(1573年〜1592年)に秋里左馬允によって築かれたとの伝承あり。
天正8年~9年(1580~81)の豊臣秀吉による鳥取城攻めで、秋里氏は毛利氏側に従って鳥取城に移る。
秋里氏について
秋里氏は高師直の次男玄蕃頭師永の子孫と伝わっている。秋里氏 は元徳年間から天正年間(一三二九~一五九二)までのおよそ二百五、六十年間、 因幡の守護山名氏の麾下として栄えたといわれ、羽柴(豊臣)秀吉の鳥取城攻撃 の時、毛利氏の指揮に従って鳥取城に移り後に毛利氏の長府転封に付き従った。
萩藩諸家系譜では秋里左馬允は貞信といい慶安3年(1650)に84才で亡くなっている。
※生まれが1567年頃になる。
しかもこの秋里左馬允貞信が家系図を自ら焼き捨てて素性を不知としている。
ただし、萩藩閥閲録によれば、秋里氏は山名氏清の子どもとなっており、系図の混乱も見られるが、200年の内に庶流も多く発生して一族の中には山名氏との婚姻からこのような混乱が発生したのではないか。
城主家系図
萩藩閥閲録にある秋里氏にて記載。
本当かどうかは不明。
所感
●特に目立った城ではないが、武田高信の叛乱や豊臣秀吉の鳥取城侵攻時を通して築城されたのではないか。
●加工度は低く、一時籠城するような城と思われる。
●城主の秋里氏に関しては長年の山名家臣として姻戚関係も発生していると思われ、家系図にもその点が反映されていると思われる。
●車を停めるところが無いので別の場所に停めるほうがいい、法華寺跡の前の道を通ったら車道が狭くなり危ない。
関連URL
参考URL
参考文献
『日本城郭大系14』
『国府町誌』
『鳥取県の地名』
『萩藩閥閲録』
『萩藩諸家系譜』
更新日2021/03/14