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城データ

城名:出野城(いでのじょう)

標高:194m

比高:50m

築城年:戦国時代か

城主:出野氏

場所:京都府船井郡京丹波町出野

北緯:35.271876

東経:135.362105

 

攻城記

「での」ではなく「いでの」

鳥居をくぐり登城していく。

登ること10分で最後の鳥居まで到着。

現在は出野八幡宮になっている。

八幡宮の場所が本丸であったと思われる。

周辺部、特別大きく加工された削平地はない。

本殿の裏にあたる部分。

 

余湖図

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

 

城の概要

鎌倉時代に承久の乱の功によって和知荘を賜った片山平九郎右馬允が新補地頭として武蔵国片山郷より移る。

天正年間(1573年〜1592年)頃には片山氏に代わり出野氏が居たといわれる。

 

城の歴史

出野城落城
三人衆の一人出野甚九郎の居城出野城は、慶長五年(一六〇〇)、福知山城主小野木縫殿介に攻められて落城し、城主は城と運命を共にした。『日本国史資料叢書丹波篇』には「出野城(和知谷出野村)片山彦九郎の居城也、小野木縫殿介と戦ひ討死す。一族に伊予守有重あり」と述べている。

 

また『丹波史年表』にも、慶長五年九月の項に、「小野木重勝、出野城主片山彦九郎、館城主石川備後守を攻滅す」と、館城(綾部市館町)とともに出野城の落城を記している。

 

出野城は、中世以来の地頭片山氏の枝城である。

 

片山彦五郎永忠によって築城されたという。城跡は長源寺(既済宗妙心寺派)の向かいの山、丸山にあって脚下を由良川が流れ、和知町域の大半を遠望することのできる天険の地を占めている。

 

城をどこに造るか、いかなる地を選ぶかは、築城に当たって当時の武将が最初に考えたことで、「地取り」といって城の第一条件となっているが、規模は小さいものの、この条件を満たしている地である。

 

「出野城要図」は、昭和六十三年(一九八八)城友クラブ・君江茂氏の踏査によるものである。以下調査結果によって述べる。

 

現在の八幡神社と稲荷神社の社殿は落城後に移されたもので、元は古宮という所にあったものであろう(出野区と稲次区の境に架かる橋を古宮橋と言い、その辺を古宮と称している)。

 

その当時は、素盞嗚尊を祀っていたらしいが、現在は応神天皇(誉田別之命)=八幡神社と宇賀魂命=稲荷神社が祭祀されている(後出)。なお、神社の石垣・参道は後世になって造られたものである。

 

全体として、城跡は神社の造営のためかなり破壊されている。

 

大手道は西方に延びていたと考えられる。東には三本の竪堀があって、北側が上り道で、上った左手に「袖曲論」があり、上段の二の丸のL字に曲折した張り出し部へ通ずるものである。

 

なお、山の斜面をすべて塁壁として利用し、この斜面に沿って竪堀の遺構が数カ所残っている。

 

竪堀は、これに入ってくる敵を左右の高所から攻撃すると、敵はほかに避けることができないので、大きな効果を持っていた。

 

主部の本丸・二ノ丸は山頂を削り取って平坦にしたもので、長さ七二㍍、幅約三〇㍍になる。城跡の全長は、北西の壁堀から北東の参詣道で深くえぐられた所まで、約一五〇㍍の長さである。

 

日常の生活を営む館は、麓の別の場所に存在していたと思われるが、現在では特定することができない。

 

現在、出野区の小字名には「ゼンジョウボウ」や「下ノ成」などがある。

 

また、「殿池」と呼ばれる広さ一坪(三・三平方㍍)ほどの池があって、城主の産湯の池とも沐浴場とも言い伝えられている。ともに館の痕跡と思われる。 (『和知町誌』)

 

出野八幡宮

稲荷神社・八幡神社(出野)
既述のように、出野稲荷神社は八幡神社とともに出野城跡に鎮座している。
出野村の神社については、『寺社類集』に、

産神 牛頭天王 一間四面
建立年歴未考
右境内二十間ニ八間
稲荷社  二尺四面
建立年号末考
右境内四間ニ八間

とある。江戸期、牛頭天王(素盞嗚尊)を祀っていた社が、現在は応神天皇を祀る八幡神社になっていることになる。

 

稲荷神社の祭神は宇賀御魂命で、社殿は三間社見世棚造り、柿葺きである。

 

(注)見世棚造り 通常の本殿は正面に縁と階を付けるが、階を略し、緑を棚のように作った社を言う。

 

本殿の発達段階からいうと原初の状態を示す可能性があるが、多くの場合は境内の摂社・末社・小祠に用いられるので、建築形式としては、簡略形式と見なされる。
(『和知町誌』)

 

出野氏について

出野城主出野甚九郎

落城のときの城主を、『日本国史資料叢書』・『丹波史年表』は、ともに片山彦九郎としているが、当時この一族は出野氏を名乗っていた。

 

片山の支族で、地名を苗字としていたのは、和知上庄の粟野氏の場合と同じであるとみられる。「片山家文書」に収められている出野氏関係の文書とその発給者・宛所を一覧にすると表9のようになる。

 

文書番号86の「飯尾秀兼奉書」は、「丹波国船井郡和知庄内出野分、祖田分、才原分、広野分……」を「為二守護不入之地一、永可レ被レ全二領知一之由」と、所領を安堵しているもので、宛所は片山七郎左衛門厨であるが、出野氏と考えてよいのではないか。そのほかの文書では、出野新左衛門、出野弥次(二)郎、出野越中守、出野甚九郎と地名の出野を苗字として冠している。出野甚九郎は、彦九郎という名を持っていたかもしれない。

 

前述のように、和知三人衆は光秀・秀吉に臣従して土豪としての命脈を保っていたが、慶長三年(一五九八)八月、秀吉が大坂城で没すると、天下の形勢は徳川家康方の東軍と石田三成を中心とする西軍方とに分かれ、慶長五年の関ケ原の戦に向かって大きく動き始めた。この戦が天下分け目の戦と言われたように、丹波でも戦乱の渦中に引き込まれ、和知の土豪もその命運を左右されることとなった。

 

出野城を攻撃した小野木重勝について、『大日本人名辞典』では、「生国は丹波で、はじめ波多野氏(八上城主)に属して福知山城を守っていた。

 

波多野秀治が、織田信長と抗争すると、信長の臣明智光秀は波多野氏を滅さんとはかる。

 

重勝はひそかに光秀に通じて、計をめぐらして遂に波多野氏を滅す。信長、邑一万八千石を重勝に与えてその功を賞し福知山城に居らせた。信長弑せられると、重勝さらに羽柴秀吉に属す。……関ケ原の戦には、石田三成に党し、藤掛永勝(編者注・氷上郡小雲城主、関ケ原戦後七〇〇〇石減じて六〇〇〇石で何鹿部上林に転封)、谷衛好(同・衛友の誤りか。衛好は天正六年(一五七八)戦死、衛友は山家藩主として戦後本領を安堵される)、杉原長好(同・長房の誤りか。

 

長房は但馬豊岡城主、戦後所領安堵)、別所賢治(同・綾部城主別所吉治か)、小出吉政(同・但馬出石城主、後の園部初代藩主吉親の父)等と共に騎馬二万を率いて、丹後の田辺城(舞鶴)を攻め、長囲を作る」と。

 

すなわち、小野木重勝は西軍に従って、丹波の藤掛・谷・杉原・別所・小出氏らとともに、徳川家康方(東軍)に属していた田辺城を攻撃した。

 

(注)田辺城の攻防 田辺城は、天正八年(一五八〇)八月、丹後宮津に入国した細川藤孝(幽斎、一五二四~一六一〇)、忠興(三斎、一五六三~一六四五)父子の宮津城築城に並行して、藤孝の隠居城として建営された。関ケ原の戦が始まると、忠興は、家康方について、三成方の会津上杉景勝を討つべく、宮津を留守にしていた。

 

留守を預かっていた父藤孝は、宮津城をはじめ田辺以外の諸城をすべて自らの手で焼いて、田辺城に籠城し、東軍方を迎え撃った。細川の田辺籠城と呼ばれるものである。

 

七月から九月にかけて攻防戦が繰り返され、城は危急に瀕した。藤孝は有名な歌人で古今伝授(「古今集」の解説の秘伝)の継承者であり、これを助けるため、後陽成天皇の勅命が出され、勅使烏丸光広の勧めで城を明け渡したので、攻城の諸将は引き上げた。

 

竹の皮作戦

 

『丹波史年表』では、出野城落城の日を特定せず、九月の項に挙げているだけである。

 

おそらく田辺城明け渡し直後、小野木重勝の軍に攻撃されたものであろう。当時出野城の兵力はいか程であっただろうか。出野甚九郎は、草高七八七石余、侍二一人、百姓二七一人、計二九二人を支配下に置いている(『資料集』(一)七五ページ)。

 

百姓も戦争になると、戦に参加する習わしであり、出野氏は隣郷山内庄(現瑞穂町)にも勢力を扶植していたらしく、一〇〇人前後の兵力で城を守ったと想像される。和知の郷土史家原田銀之丞は、この戦の様子を次のように述べている。

 

時の城主は出野甚九郎で、智略に富んだ武人であった。出野城は北に天険由良川を控え、且つ遠望のきく攻め難さを悟りたる攻め手の主将斉藤内蔵介は裏門へ、同じく部将監物仁右衛門は北側より一時にドッと押し寄せたが、かねて覚悟の甚九郎は驚き騒ぎもせず、楠氏にもあらぬ奇策を案じ、竹の皮を寄せ集め、城の周囲の急坂一面にこれを敷き詰めて、のぼり来る敵を防ぐ備えをしていた。

 

それとも知らぬ寄せ手の面々、城山の中腹まで上った頃、前後からの弓矢の一斉射撃に辟易して二度は退却したが、さすがに小野木の部下にその人ありと知られたる斉藤内蔵介、この儘思い止まる事やあらん、竹の皮の乾くを待って各所一時に火を放った。折からの大風にあおり立てられ、苦もなく落城したのであった。  (『下和知時報』)

 

この当時、城の防御手段として、竹の皮を敷き詰めたことは、この城だけでなく各地の城攻めの伝承の中に出てくる話であるという。いずれにしても、田辺城の囲みを解いた余勢を駆って押し寄せた小野木軍の前には、蟷螂(かまきり)の斧の感なきにしもあらずである。

 

落城に際し、城を枕に討ち死にした者、生き残った武士たちのうち土着して農民となった者、遠く散っていった者などさまざまに伝えられるところである。今も「旭輝く魔の谷組千束サクラの木の下に金がある」と言い伝えられている。

 

落城の際の御用金埋蔵の伝承か。

 

関ケ原の戦は、慶長五年(一六〇〇)九月、東軍勝利のうちに終わった。

 

和知の出野城は、この決着の前に落ちたのであるから、歴史の皮肉ともいうべきものである。小野木重勝は後、亀山の寿仙院 (浄土宗ともいう)に入り剃髪して切腹させられている。

 

田辺城攻城の諸将のうち、山家の谷、上林の藤掛、豊岡の杉原、出石の小出らが、戦後所領を安堵され生き残ったのと対照的な最期であった。

所領安堵の嘆願

関ケ原の戦の後、すなわち、慶長五年十月二十四日付で、三人衆の一人片山兵内が加治左馬介にあてた次の書状が、「片山家文書」に残されている(写真98)。訓読すると、次のようになる。

 

丹波の国舟井部和智庄片山兵内、本領地高千五百石の所、山河一色に仰せ下さるるに於いては、役儀として弓の者五拾人申し付くべし候条、公儀然るべき様に願い存じ奉り候。

 

若しこの旨相叶わざるに於いては、右のうち五百石の分仰せ下され、千石分卸代官に仰せ付けられ候様に願い存じ奉り候。

 

万一この旨にても相調わず候えば、惣千五百石分御代官になる共、望みの地にて御座候間、万端願い奉る外他に御座なく候。よって右件の如し。

 

関ケ原の戦に、兵内が東西いずれの方に従ったかは、史料の上では不明である。出野城が、西軍方の小野木重勝によって落城していることからみて、和智三人衆の一人として、田辺城によしみを通じていたと考えられる。

 

少なくとも、その去就を曖昧にして、旗幟を鮮明にしなかったのではないか。そこで、戦後、徳川方に所領の安堵を願い出たのが、この書状である。

 

文意はきわめて明瞭で、

①まず、和智の庄一円一五〇〇石の所領の安堵を願い、

②もしそれが不可能ならば、所領五〇〇石、残り一〇〇〇石分の代官、

③それも不可能ならば、一五〇〇石の代官になっても、この和智が「望みの地にて御座候間」お願いするよりほかありません、

と、旧領の回復、また新たに代官職の獲得を嘆願したものである。この嘆願書に対する結果は、同家文書中には見当たらない。一方通行に終わったのに違いない。

 

既に太閤検地は実施され、兵農分離の時代である。一族が帰農したことは、後の歴史が物語っている。 (『和知町誌』)

 

引用サイト

出野(いでの)京都府船井郡京丹波町出野

 

所感

●中世土豪の城としては申し分ない規模である。

●城主の石高として1500石を有していた。

●片山氏の庶流が地名の「出野」から苗字を「出野氏」と名乗ったのであろう。

●城の加工度としてはそこまで技巧的では無いが堅堀などを有している。

 

参考URL

城郭放浪記(丹波出野城)

 

公開日2021/03/13

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