城データ
城名:二条城
別名:二条亭
標高:41m
比高:0m
築城年:1603年
城主:徳川氏
場所:京都府京都市中京区二条城町
北緯東経:35.013878/135.748642
攻城記
まずは外周から。
櫓がお出迎え。
この櫓は写真でよくお目にかかる。
城門に近づく。
城門。
城門の石垣(切り込みハギ)
これも有名な唐門。
唐門上の装飾。
二条城の御殿。
豪華絢爛。
別の場所に移動。
別の門。
本丸に進んで行く。
堀。
土塁。
整然とした石垣。
金属製の扉。
天守閣付近
天守台石垣。
天守台から下を望む。
旧二条城の石垣
移築された旧二条城の石垣
菜療12年(1569)織田信長が室町幕府15代将軍足利義昭を守るために築いた城である。
元亀4年(1573)、織田信長と対立した足利義昭は追放され、城は解体されて一部は安土城の建設に使われるなどした。
解体された城は一般的に旧二条城と呼ばれるが学術的な確証はない。
京都市営地下鉄鳥丸線建設事前発掘調査で、京都御苑の西から遺跡が発見され、調査後に下図B(烏丸下立売付近)のものが二条城と京都御苑に移築保存された。
築城当時、日本で活動していたキリスト教宜教師ルイス・フロイスの記録「日本史』には”石材が不足していたので代わりに石仏などを粉砕したものが利用された”と記されているが、それは実際にこの石垣で確認されている。
余湖図
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
現存の遺構は竹屋町通・押小路・堀川・西/京式部町に囲まれた範囲の約二六万㎡で、周囲を幅員一三~一九mの水堀で囲まれており、水面よりの石垣の 高さは六mにも達する。
建造物としては東大手門・北大手門・西門のほか本丸 櫓門・桃山門・鳴子門・北仕切門・中仕切門が現存し、うち東と北の両大手門 は慶長の創建時のものである。
城内の建造物はほとんど国宝または重文に指定 されているが、二の丸御殿はわが国に現存する唯一の城郭内邸宅の遺構として 国宝に指定され、同庭園は特別名勝に指定されている。
かつては二の丸御殿も 聚楽第の遺構という伝承があったが、近年の修理調査の結果その説は否定され、 『中井家文書』の寛永初年の材木帳の記録と対照して寛永年間(一六二四~四四)の大改築の際に造営されたものと判明した。
その殿舎群は唐門・車寄・遠侍・式台・大広間・蘇鉄の間・黒書院・白書院 から成り、いわゆる雁行式の配置は桂離宮との類似が注目されている。
近世に 発達した書院造りの住宅のうちではもっとも豪華な遺構といわれ、屋内の金壁 障屏画は探幽を含む狩野派の彩管によるものである。
特別名勝の庭園は慶長の 創建時の作庭とみられている。
なお、本丸御殿は弘化四年(一八四七)の建造で、 嘉永七年(一八五四)の内裏炎上後仮皇居として使用されたことがあり、車寄・ 雁之間・中書院・奥御座所から成っている。
東大手門は櫓門の一種で上重の渡櫓は総塗籠となっており、中央上部に連窓 がはりめぐらされ、格子は鉄板で覆われている。なお、当城は居館風の城郭の ため桝形や高麗門に類する施設はない。
北大手門は東大手門よりやや小ぶりで あるが同形式である。
また、本丸の櫓門は東向きで前方に架橋を有するが、櫓 門としては小規模で、のちの改造の跡もみられる。しかし、裏側には桝形状の 施設があり、防備を厳重にしていたことがわかる。
歴史
慶長8年(1603):二条城完成。
慶長16年(1611):徳川家康が豊臣秀頼と会見。
慶長19年(1614):大坂冬の陣・翌年の夏の陣で軍議を開き、二条城より出陣。
所感
●徳川家康によって築城された豪華絢爛な城。
●平城であるが、しっかりとした防御も認められる。
●観光地化されておりすぐにでも行ける城である。
参考URL
参考文献
『日本城郭大系11』
公開日2021/03/13