城データ
城名:松本城
別名:深志城、烏城
標高:590m
比高:0m
築城年:戦国時代深志城として築城(1504年)されたのがその前身と言われる、文禄慶長年間(1592~1615)に石川氏により大幅改修を実施
城主:小笠原氏、石川氏、松平氏、堀田氏、水野氏、松平氏 (戦国時代は小笠原氏と石川氏)
場所:長野県松本市丸の内
北緯東経:36.239031/137.969388
攻城記
立派な石塔がお出迎え。
国宝指定。
ちらっと天守が見える。
さあ、門をくぐって行きます。
門付近の石垣。
石垣も大きい。
江戸時代から残っている。
そのまますぐに天守に向かう。
なんと立派な天守であろうか。
石垣の積み方は古い。
城内に入って行く。
月見櫓らしい。
北・東・南に設えてある舞良戸を外すと、三方吹き抜けになり、回りに巡らされた朱塗りの回縁や船底型の天井など書院風の造りと相まって、優雅な雰囲気を醸し出し、天守・渡櫓・乾小天守と比べ開放的で、平和な時代に造られたことがよく分る。
この月見櫓は松本城主松平直政(家康の孫)によって、一国一城令という統制の厳しい中、寛永年中に三代将軍家光を迎えるため、増築されたものである。
現存する城郭建築の中で月見櫓を持つのは松本城と岡山城だけであるが、天守と一体となっているのは、松本城だけである。
確かに朱塗りであった。
日本に数多くある城の中でもトップクラスの城であることは間違い無い。
そのまま近隣を散策。
門を出てみる。
風情のあるお堀。
松本城と言えばこのアングルが有名。
朱塗りの橋を松本城が絵になる。
裏から見た松本城。
松本神社。
堀と石垣。
堀幅も広い。
二の丸御殿付近。
太鼓門にある立派な門石 重量は22.5トンあるらしい。
攻めても周りからの攻撃で全滅間違い無し。
威風堂々な松本城。
行った時は夏であり青空と瓦のコントラストが素晴らしかった。
松本城ジオラマ。
余湖図
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
現松本市丸の内の地を中心に、旧市街地の中心にある。
大天守が大堀に直接影を映して、日本北アルプスの ふかし 運山が背景をなす。
天正一〇年(一五八二)七月小笠原貞慶 が深志城から松本城と名を改め、一時小笠原氏の本城、 のち豊臣秀吉の石川氏移封により近世城郭としての道が 開けた。
天守は石川康長が文禄三年(一五九四)頃から建築に着手し、慶長二年(一五九七)頃までには完成したとみられ、月見櫓のみが寛永年中(一六二四-四四)に松平直政によって付設された。
五層六階の大天守と、三層の乾小天 守は、渡櫓で連結され、二層の辰巳付櫓は直接天守に合 体しているので、この建築様式は連結・複合的天守とい われる。
月見櫓を複合していることも興味深い。
城のある本丸・二の丸の地形は、東北部が高く、西南部は緩やかに傾斜し、本丸は東西がやや長い逆台形に区 画され、その周囲には内堀があり、東・南・西の三方を 堀を隔てて二の丸が囲む。
内堀の東方隅から東方に延び た堀は、二の丸の郭を囲んでおり、本丸及び二の丸の周 囲には最も大きい三の丸の郭がある。
その周囲には総堀 があり、その外に馬出しがつき、周囲は約二キロである。 その外側の城下町に武士屋敷・徒士屋敷・足軽屋敷を配 置している。
現存する天守・本丸の石垣は石川氏が築いた。
松本城は、前期天守として最古に属し、規模が小さ く素朴な割合に、最盛期天守に発展する要素を多くもっている。
石垣は直線的で反りが少なく低いこと、唐破風・ 千鳥破風など装飾的要素が少ないことも注意される。
長野県の地名より引用。
城の歴史
永正元年(1504):深志城として小笠原氏によって築城。
天文19年(1550):武田氏の侵攻により落城する。
天正10年(1582):武田氏滅亡し、その混乱中に小笠原氏が奪還する、更に徳川家康の臣下となった小笠原貞慶が正式に復帰して松本城と改名する。
天正18年(1590):小笠原氏から石川数正が入城する(このころ城郭の改修や城下町の建設を積極的に行う)
所感
●流石国宝に指定されていることだけあって、大変貴重な見応えのある城。
●地元の方の保存意識が高いため後年にここまで素晴らしいものが残っている。
●表ばかりでなく、裏から見たり、堀から見たりするとまた違う側面があり良い。
参考URL
参考文献
『長野県の地名』
『日本城郭大系8』
公開日2021/03/06