城データ

城名:上田城

別名:尼ヶ淵城

標高:455m

比高:10m

築城年:1583年

城主:真田氏、仙石氏、松平氏

場所:長野県上田市大手町

北緯東経:36.403802/138.244649

上田城はここ

 

攻城記

バス乗り場からすぐに見えるのがこの櫓。

中々急な斜面。

 

電車が通っていたようだ。

堀の跡。

そのまま進んで行く。

二の丸東虎口

二の丸への入口は、正面側である東虎口 のほか、北と西の計三箇所あった。

 

いずれにも石垣が積まれていたが、このように城の門 に枡形を造って敵の城内への直進を防ぎ、 曲がって出入りするようにした出入口を虎 口(小口)という。

 

しかし、この二の丸の虎口は、三の丸大手口と同じく簡単な木戸が作られていただけで、建物(櫓門)は建てられなかった。

 

武者溜

 

櫓門前の敷地一帯は三十間堀と石垣で他から仕切られた一つの郭になっており、「武 者溜」とされていた。

 

武者溜とは城門内の外 郭に沿った広い場所で、軍勢の屯集、勢ぞろいに使われる一画をいう。

 

松平家在城時代には、その中に同家の鎮守社などが祀られ るようになったため、この武者溜は「鎮守曲輪」とも呼ばれた。

 

古地図。

上田城趾の石塔。

 

上田城は天正十一年(一五八三年)真田昌幸によって築かれた 平城である。

 

当時の千曲川分流尼ケ測に臨み、太郎山と千曲川・神川に取り 困まれた天然の要害に拠っている。

 

竣工の翌天正十三年昌幸が徳川 家康の命に従わなかったため、その怒りに触れ、大久保忠世・鳥居元 忠等の率いる信濃・三河の勢八千でこの城を攻めたが遂に陥れることが できなかった。

 

また慶長五年 (一六〇〇年)関ヶ原の合戦に際し、豊臣方に属 した昌辛・幸村父子は、この城にたて籠り徳川秀忠率いる二万五千 の大軍の西上をはばんで、関ヶ原の戦いに不参させたことは、上田城を 一躍天下の名城と言わしめるに至った。

 

現在三の丸は市街地と変わってしまったが、本丸と二の丸には土塁・ 石垣・漆跡がのこり、特に本丸の東西虎口に三基の隅櫓と石垣が昔 の姿を留めている。

 

石垣の造りからして江戸時代のもの。

 

上田城の歴史

上田城は真田幸村信繁業の父、真田昌幸によって天正十三年(一五八五)には一応の完成をみたものと考えられている。

 

この上田城はまもなく天下にその名を知られるようになった。

 

それはこの上田城に拠った真田氏が、二度にわたって 徳川大軍の攻撃をうけ、みごとにそれを撃退してしまったからである。

 

最初の合戦は天正十三年に行われた。

 

攻め寄せた徳川勢はは七千人余り。迎え撃つ真田勢は二千人弱であった。

 

しかし真田氏の巧妙な 戦術によって、倒川軍は思わぬ大戦となり、死者を手三百人余りだした。

 

これに対し真田方の死者は四十人ほどであったという。

 

二度目の戦いは、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦に際してのものであった。

 

関ヶ原へ向かう遼中、上田へ押し寄せた 徳川秀忠軍は、三万八千人という大軍、これに対し、昌幸・幸村父子の率いる上田城兵は、わずか二千五百人ほどてあった。

 

しかし、このときも徳川勢は上田城を攻めあぐね、この地に数目間も釘づけにされただけに終わり、関ヶ原での決戦に遅れるという大失態を演ずることになる。

 

上田城は.いわは地方の小城であった。石垣も少なく、一見したところ要害堅固な城とも見えない。

 

しかし実際は周囲の河川や城下町を合めた全体がきわめて秀でた構造となっていたことが、現在、学術的研究によって明らかになってきている。

 

全国に数多い近世城郭のなかて二度も実戦を経験し、しかも常にこのような輝かしい戦票をあげた城はほかに見ることはできない。

 

上田城はその後、徳川軍の手て破却されたが、真田氏にかわって上田城に入った仙石氏によって復興された。寬永三年(一六二六)

 

この時修復された上田城は真田氏時代そのままであったとみてよく、仙石氏の後、松平氏の世となってもほとんど変化はなかった。

 

廃藩置県後、明治七年、上田城は民間に払い下げられ、再び廃城となった。

 

この際、本丸付近を一括して勝入した丸山平八郎は、明治十二年、松平神社(現真田神社)創建にあたり本丸南側の土地を神社用として寄付、ついで、明治二十六年には、残りの土地を遊園地用として寄付した、これが土田城跡の公園化への第一歩となった。

 

現在.三の丸地域は改変しているが、本丸・二の丸には、土塁・堀跡などがあり、かつ本丸の三基の隅櫓は昔の姿を留めている。

 

どのような構造なのか不明。

排水用?

隅櫓。

さあ本丸に入っていく。

大きな石であるが、仙石忠政が造ったもの。

堀。

門と門石。

真田城レプリカ。

真田神社。

丸山平八郎が、明治十二年に寄進して建立。

真田井戸。

上田城西櫓。

堀跡。

本丸土塁の隅欠。

二の丸北虎口。

百間堀の樋

再度尼ヶ淵に戻ってくる。

到底登れない。

南櫓下の石垣。

石垣が途中で拡張工事されている。

open-hinataより【上田城】

 

余湖図【上田城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

城の概要

上田城下の西、千曲川の断崖上にある。東北部一帯は更に一段高く、染谷台と称される。

 

城南の千曲川がつくる深淵尼が淵にちなみ「尼が淵城」あるいは「海士淵」 ともいう(上杉年譜)。

 

真田氏のそれまでの根拠地、松尾城 の名をとり松尾城ともいわれた。

 

天正一 一年(一五八三)真田昌幸が築城に着手、翌一二年にほぼ完 成したとみられる。

 

染谷台からの落ち水による氾濫を避 けるため、この方面の堰を改修して北部を西流する矢出 沢川にその湛水を切って落し、更に矢出沢川の流路をは るか西北に迂回させ城の外堀とした。

 

本郭の位置は現在と大きな変動はないが、仙石氏、松 平氏と、城主が変わる都度城郭の修築が行われた。

 

仙石氏入部の時は、真田氏時代の本丸から三の丸までの堀を 埋め、以前の二の丸までを本丸、三の丸は二の丸、外曲輪は三の丸となった。

 

本丸には土居の上に七つの櫓を築き、白壁の築地塀をめぐらせたという(上田市史)。

松平氏時代の城郭は享保初年頃の絵図によると、本丸 はほぼ万形(鬼門の方角のみ欠く)で東西九一メートル、南北 七六メートル、面積八千二〇〇平方メートル、中央で南 北に仕切り、北を上の台、南を下の台とよんだ。

 

堀は東。 北・西の三方をめぐり堀口(堀の幅)二九メートル、深さ八 メートルで石垣はない。

 

堀の内部にめぐらした土居に築地塀を築き、土居の隅の七ヵ所に二層の櫓を建て、東西 の「虎の口」に渡櫓を構えた。

 

二の丸は本丸を囲み、ほ ぼ一〇〇メートルの幅で外側の東・西・北の三方に土居 と堀をめぐらす。

 

更に東三〇〇メートルに堀、北三〇〇 メートル、西三〇〇メートルに矢出沢川の深い谷がめぐ り、この内部を三の丸といって城の外郭とした。

 

大手は 三の丸の海野町に接し、石垣に築かれた枡形に番所が置 かれていた。

 

天正一三年七月、真田昌幸と徳川家康との確執が生じ、 その結果家康は、大久保忠世・鳥居元忠・平岩親吉の三 将に保科・諏訪・下条・知久・芦田·根・遠山·屋代 らの信濃の諸勢を加え七千の兵をもって上田城攻めを行 ったが敗退。

 

また慶長五年(一六〇〇)にも真田昌幸が次子 信繁(幸村)とともに石田三成方についたので、家康の嫡子秀忠が上田城攻めを行ったが失敗している。

 

関ヶ原戦後、 上田城は徳川方となった昌幸の長子信之に与えられた。

 

城の歴史

天正11年(1583):真田昌幸によって築城される。

 

天正13年(1585):第一次上田合戦にて攻め手の徳川軍を撃退。

 

慶長5年(1600):関ヶ原の戦い時において、第二次上田合戦があるが、この時も徳川秀忠軍を防ぐ。

 

慶長6年(1601):徳川側によっ徹底的に破壊される。

 

寛永3年(1626):仙石忠政によって上田城の再建を申請して受理される。

 

所感

●尼ヶ淵から見る上田城は絵になる、当時はここまで河川であった。

 

●城域は広いが現在は陸上施設になっている。

 

●古い建物も残っており当時を偲ばせる。

 

参考URL

上田城(ウィキペディア)

城郭放浪記(信濃上田城)

open-hinata

 

参考文献

『長野県の地名』

『日本城郭大系8』

公開日2021/03/06

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