城データ
城名:日浦山城
別名:火村山城
標高:346m
比高:338m
築城年:建武3年(1336)
城主:南朝宮方 阿曽沼氏
場所:広島県安芸郡海田町~安芸区畑賀町
北緯東経:34.382849/132.542121
攻城記
飯山城の尾根筋を日浦山に向かって登っていく。
途中開けた場所もある、見張りをするには最適な場所。
標高350mと高いので時折このような急な場所もある。
日浦山に到着。
景色は抜群にいい。
眼下は海田町。
室町時代頃はここは海であった。
広島市市街地を望む。
瀬野方面。
畑賀方面。
海田町一望できる。
本丸部分。
反対方向から。
本丸単郭で加工はされていない。
下っていくと地獄岩という場所がある。
地獄岩遠景。
かなり急な場所であった。
更に下っていくと、鬼の洗濯岩というところがある。
確かに洗濯板のような感じ。
更に下って麓まで降りる。
真福寺というお寺がある。
最後に熊野神社に到着。
日浦山城遠景。
open-hinataより【日浦山城】
余湖図【日浦山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
概要
本城跡は,日浦山(標高346m)の山頂を中心とする尾根上にあって、眼下に瀬野川河口及び海田湾を望む位置に当たる。
1郭の西方に堀切を挟んで郭を配する簡単な構造である。
一部自然石を有効に利用した城門跡が見られ,この部分は桝型の虎口としている。
立地、構造から、西方からの侵入に対する見張り的機能が考えられる。
城主は、阿曽沼豊後隆郷と伝えられる。
広島県中世城館遺跡総合調査報告書より引用
城の歴史
南北朝動乱期における日浦山城
南朝方であった矢野城の熊谷蓮覚を攻めて落とした武家方はそのまま東進して畿内で転戦していた。
その留守を狙い、石見から南朝軍が南下し 暦応元年(一三三八)正月十日には大朝荘(広島県北広島町)で吉川氏に退けられたが、三月十日、再び来襲して吉川勢を破り、一気に広島湾まで進 んで同十五日、開田荘火村山(安芸郡海田町日浦山)に城を築いてたて籠もった。
『毛利家文書1526』『吉川家文章1048』『吉川家文書1158』
『毛利家文書1526』より
『吉川家文章1048』
『吉川家文書1158』
この南朝軍は万里小路継平(安芸国大将)・吉田高冬(備後国大将)という公家を大将とし、安芸の小早川高平、石見の福屋氏らを中心とする大軍であった。
このため、畿内で転戦中の武田信武 は守護代の福島左衛門四郎入道を大将とする軍勢を派遣して火村山城を囲ませた。
戦闘は十五日に始まり数回の攻撃にも城兵はよく耐えたが、二十日になって搦手北尾頸から三戸頼覚 ら、西木戸から周防親重らが、それぞれ城内になだれ込んで 城は落ちた。
『毛利家文書1526 』『吉川家文書1048』『吉川家文書1158』
南朝軍が火村山城に拠ったのは、熊谷蓮覚が矢野城を選 んだのと同じ理由によるもので、広島湾東部地域における 基勢力の強さを示しており、この合戦後も、しばらくはそうした状態が続いたものと思われる。
大永七年(1527)大内氏との合戦
大永七年(一五二七)鳥籠山城再度落城(阿曽沼弘秀から隆郷への移行)
大永五年末に鳥籠山城を開城降伏した阿曽沼氏は大内氏支援の大友氏が退去したのち、ふたたび鳥籠山城に拠って大内氏に反抗する。
しかし、こんどは表むきは阿曽沼であったが、実際は佐東から武田勢が入城してたてこもっていたのである。
陶興房は海田蒋頭の中心拠点鳥籠山域を攻め落とすため、まず 大永七年(一五二七)二月、熊野に陣を移して能野城を攻察するが、これには大内氏被官の石井・脇・弥富氏らとともに国人領主の天野興定も加わっている。
阿曽沼氏の重要な属城で鳥籠山の西のおさえとなっていた日浦山城を攻めた。
そして同年三月八日に鳥籠山城詰口の合戦となり、ついに同城は陥落した。
随落した鳥誰山城は大内氏の管理下に置かれたのであって、この城の攻撃軍に加わっていた大内氏の被官で豊前国宇佐郡出身の弥富依重が、城郭の城誘・普請を命じられている。
鳥籠山城は大内氏が海田湾頭を支配する拠点としてあらためて堅国に修築がすすめられたのであり、おそらく大内氏被官が城番として置かれ、阿曽沼氏が大内氏に忠誠を誓う体側が整えられるまで返還されなかったであろう。
鳥龍山城が陥落したとぎの阿管沼氏の当主はだれか判然としない。阿曽沼氏の系図には不自然なところがあり、弘秀に続けて広秀を置いているが、実は両者の間に隆郷が家を継いでいた時期があったと推定される。
おそらく鳥籠山城陥落時が弘秀から隆郷への交代の時期であろう。
年代不明であるが、平賀弘保から陶興房にあて、阿曽沼方で父子 が争い、一方が佐東の武田方と連絡をとっていると報告した文書がある
『平賀家文書七〇』より
阿曽沼氏家中は、武田(尼子)方と大内方に分裂し父子さえも争っていたことが知られる。
大内氏管理下で家を継いだ隆郷は大内氏色をつよめ、隆郷とい う名前もおそらく大内義隆の名字の一字を賜って名乗ったものであろう。
この時期における大内氏麾下の国人領主たちの名前を眺めると、毛利氏の隆元(天文十五年元就から家督を譲られる)、矢野の野間隆実(興勝の嗣子)、志和の天野隆綱(興定の嗣子)など、いずれも義隆の一字をもらっている。
阿曽沼氏も彼らとならんでおなじく「隆」の一字をもつ隆郷が当主であったとみてよいであろう。
日浦山城の城主が阿曽沼隆郷という伝承とも符号する。
城主家系図
南北朝時代にはかなり奥まで海であった。
所感
●城というよりも砦に近く加工度は低い、一時的に拠ったものだと思われる。
●ハイキングコースとなっており気軽に登れる。
●山頂からは市内を一望でき、また瀬野や畑賀方面の見通しも利き敵の侵攻が分かる。
●当時は麓まで海であり海上防備としても有効であったと思われる。
関連URL
阿曽沼氏居城。
合戦時に同様に立て籠もったと思われる飯山城。
日浦山合戦の数年前に宮方として戦った矢野城。
参考URL
参考文献
『芸藩通志』
『毛利家文書』
『吉川家文章』
『山城 広島市教育委員会』
『海田町史』
『広島県の地名』
『安芸武田氏』
公開日2021/02/20