城データ

城名:高嶺城(こうのみねじょう)

別名:高峰城、鴻峰城

標高:338m

比高:280m

築城年:弘治3年(1557)

城主:大内義長、毛利氏城番の市川経好柳沢元政佐世元嘉

場所:山口県山口市上宇野令

北緯東経:34.185152/131.462086

高嶺城はここ

 

攻城記

比高はそこそこあるが登り進めると山頂あたりに曲輪跡がでてくる。

整備もされており攻城しやすい。

看板。

石垣跡。

恐らく草木が生えていたのを整備したのではないか。

綺麗な石垣が残っている。

石垣自体は大内義長というよりも毛利氏が改修したものと考えられる。

瓦片

本丸付近はこのように周辺が石垣で囲まれている。

南側の石垣はまだ積み方も稚拙で大内義長を滅ぼしてからすぐに改修した時代のもの。

 

高嶺城跡

昭和三十四年十一月二十七日国指定

 

高嶺城は、大内氏最後の当主大内義長が毛利氏の侵攻に備えて弘治三年((一五五七)に築いた城です。

 

同年、義長は形勢が不利となり長門国(下 関方面)に逃れましたが、四月、長府の長福寺(現在の功山寺)で自刃し ました。

 

義長が去った後、毛利氏は城の改修をし、市川経好を域番として置きま した。

 

永禄十二年(一五六九)に大内輝弘が山口に攻め入った際に、毛利 勢はこの城の守りを固めて寄せ付けなかったといわれています。

 

元和元年(一六一五)、德川篆府から一国一城令が出されたため、毛利 氏は萩指月山城を残し、山口高嶺城、長府事崎城、岩国横山城を破却すること。

 

寛水十五年(一六三八)高嶺城は廃城となりました。

 

高嶺城跡のある鴻ノ峰は標高三三八米の丘陵です。

 

城跡は頂上の主郭を中心に、四方に伸びる尾根に曲輪群が広がっています。

 

主郭やその周囲の曲輪には石垣が巡らされ、礎石や瓦片が発見されています。

 

なお、史跡大内氏遺跡は館跡・築山跡・高嶺城跡・凌雲寺跡の四遺跡で 構成されています。

 




曲輪図。

本丸。

本丸からの展望。

山口市内が一望できる。

 

 

余湖図

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用

 

城の歴史

高嶺城跡

鴻ノ峰(高嶺)の山頂にあり、大内義長が毛利氏 に対して築城した山城。

高峯城とも書く。

 

天文20年(1551):大内義隆を討った陶晴賢は、豊後 の大友宗麟の弟晴英を迎え、大内氏の遺領を継がせた。

睛英は大内義長と改名して山口にいたが、石見の吉見正頼、安芸の毛利元就の来攻に備える。

 

弘治2年(1556);春、高嶺山頂に城を築きこれに対した。

 

弘治3年(1557):二月、 城はまだ完成しなかったが、毛利勢に攻められ、義長は 内藤隆世とともに籠城した(言延覚書)。

しかし攻勢は激しく、兵糧は乏しく城を守ることの不可能を察し、長門国 勝山城(現下関市)に走った。

 

四月、義長が滅んだ後、毛利元就はこの城を補築し、城番として市川経好以下を任命した。

 

永禄12年(1569):大内輝弘が山口に侵入し、高嶺城を囲んだ。

当時市川経好は筑前国立花城(現福岡県粕屋 那新官町)にあったが、毛利勢はよく敵を防ぎ、落城をくいとめた。

 

慶長14年(1609):毛利輝元によって山上に次の 禁制「閥閲録」所収桂勘右衛門家文書)が掲げられている。

 

禁制

一当城見物停止之事

一諸商人并他国之者不能案内 登城停止之事  他国ノ者ニハ於其時理可申聞

一竹木採用并鹿狩停止之事

右条々於相背者可処厳科者也

 

元和元年(1615):城は幕府の一国一城令により、廃城 となる。

 

頂上には現在本丸などの主要遺構部分の石垣 があり、井戸も残る。

 

城主家系図

大内氏家系図

義隆亡き後は、甥の義長や従兄弟の輝弘が毛利氏と戦ったがこのような関係になる。

 

 

市川経好関係図

 

高嶺城の初期の石垣特徴として以下の特徴がある。

 

積石のなかに鏡石と時ばれる巨石を使用していることです。

 

この地点は主郭に入る一番の入口、つまり本丸の御門にあたるところです。

 

この石垣の築造技術は、戦国時代の毛利氏の石垣に近いものです。毛利氏は吉川氏を中心に「石つき之もの共」という石工集団を抱えていました。

 

「石つき之もの共」の石垣は、積石のなかに大きな豎石、横石を規則的に配置することが特徴でした。

 

また、石垣の隅に注目すると反りがなく直線的で、石材が小さなことがわかります。

このような石垣の積み方が特徴。

広島県北広島町にある吉川元春館跡。

 

恐らく市川経好は吉川の出身であるからこの「石つき之もの共」という石工集団を利用してこの高嶺城を改修したものと考えられる。

 

 

城番の石高

市川経好(当時既に亡くなっており息子の元好が当主)

約551石

 

柳沢元政

約550石

 

佐世元嘉

約2473石

 

史跡大内氏遺跡のひとつ凌雲寺跡

 

大内義興の墓と思われる宝篋印塔。

惣門跡。

当時はかなり立派な寺があったと思われる。

 

大内氏遺跡凌雲寺跡

 

余湖図

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

所感

●戦国時代に急遽籠城するため築城された城であったが耐えきれずに大内義長は逃亡、その後毛利氏城番が大改修したと思われる。

 

●城域は広く、大人数を収容可能であるが、結果的には大内輝弘が攻めて来たときに僅かな手勢で籠城している。

 

●本丸からは山口市内を一望できる景色はとても良い。

参考URL

ウィキペディア(高嶺城)

城郭放浪記(周防高嶺城)

余湖くんのお城のページ(高嶺城)

 

参考文献

『日本城郭大系14』

『毛利氏八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

『山口県の地名』

公開日2021/01/31

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