城データ

城名:萩城

別名:指月城

標高:140m

比高:140m

築城年:慶長9年(1604)

城主:毛利氏

場所:山口県萩市堀内

北緯東経:34.417862/131.383118

萩城はここ

 

攻城記

まずは毛利輝元がお出迎え。

 

毛利輝元

毛利輝元は、天文22年(1553)毛利隆元の長男として安芸国吉田郡山城(現在、広島県安芸高田市)に生まれた。

 

戦国時代中国地方の覇者となった毛利元就の孫にあたる。

 

永禄6年(1563)父隆元の死去にともない家督を継ぎ、祖父元就の手によって養育された。

 

織田信長や豊臣秀吉と覇を競い、中国地方8か国112万石を領有する大大名に成長し、天正17年(1589)広島に居城を築いた。

 

豊臣政権下では五大老の一人となり権勢を誇ったが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで敗れ、周防・長門2か国36万9千石に削封された。

 

慶長9年(1604)、居城を萩に選定し、同年11月11日、萩城に入城した。

 

萩開府にあたって、城下町の建設を推し進めるとともに、萩藩経営の安定に腐心した。

 

寛永2年(1625)73才で没し、萩城三の丸(堀内)の天樹院に葬られた。

平成16年11月萩 市

なかなかでかい石垣。

鏡石もしっかりある。

さあスタート。

上に登ったらこうなっていた。

なるほどこうなっているのか。

まだまだ序の口。

流石毛利氏の居城、石垣もしっかり組まれている。

ただし慶長年間の積み方ならもう少し丁寧でも良いのでは?突貫工事だったのかもしれない。

堀も残っており往時が偲ばれる。

詰城を背景に。

この後攻城することになる。

見慣れた萩城本丸。

 

堀から見た石垣。

八間矢倉跡。

一旦別のゾーンに進む。

毛利元就菩提寺であう洞春寺跡

 

洞春寺跡

臨済宗洞春寺は、毛利元就の善提寺で、1606(慶長11)年、安芸国(現在の広島県)からこの地に移された。

 

境内には、徳川家康の木像や歴代将軍の位牌を祀った霊牌殿、元就の木像を祀った顕西殿があった。

 

毎年、3月14日から16日まで、大般若経千部の読誦が行われ、遠くから多くの人が訪れたと伝えられている。

 

1863(文久3)年、山口へ移された後、残された建物は1869(明治2)年、 山崩れで破壊され、現在、石道が残っている

 

毛利元就の妻(妙玖)のお寺

 

妙玖寺

臨済宗妙玖寺は、毛利売就の正室、妙玖の善提寺で、1612(慶長17)年、この地に建立された。

 

本尊は麻迦牟危仏、脇侍は普賢・文殊善産、客殿は7間に6間、庫裏は6間に5間の広さであった。

 

1869(明治2)年、万年寺に合併され廃寺となり、現在、西側の山手に石組の基壇が残っている。

 

 

また本丸に戻る。

天守閣跡に進む。

礎石だけが残る。

当時の萩城。

なかなかの風景。

往時が偲ばれる。

潮入門跡

すぐに海に繋がっている。

当時の土塀がまだ残っている。

修復して欲しい。

北矢倉跡。

萩城は実は海に面している。

もう一度戻り、本丸の下へ行ってみる。

 

萩城詰城

詰城までいく方は少ないと思う。

20分~30分位かかる。

めっちゃ雰囲気がある。

進んで行く。

二の丸。

 

萩城要害跡

ここ、指月山の山頂(標高百四十三メートは)は、要害または 詰丸と呼ばれ、戦時に籠城するための、まさに最後の砦であった。

 

要害は周囲を石垣と土塁でとり囲み、要所には矢倉を配置していた。

 

平時には眺望の利く大小様々な矢倉から陸地と海上を監視した。

 

矢倉内には緊急時に備え、武器類も配描されていたようである。

 

矢倉門である要害門矢倉を技けると、二の丸(東西十九間⋯三 十七・四メートル、南北二十間⋯三十九・四メートル)が広がる。

 

建物は現存しないが、二の丸には監視役の執務場所である要害番所と宿所である居小屋が存在した。

 

さらに一段高くなった東側には本丸(東西二十四間⋯四十七・ 三メートル、南北二十間⋯三十九・四メートル)があった。

 

本丸 には天守が存在したという記録はないが、落主が要害登山時に儀礼空間や酒肴の場として用いた茶屋が建っていた。

 

二の丸と本丸 との間は土塀で仕切られ、両者は棟門で連絡していた。

 

また、本 丸の東端には裏門となる埋門があった。なお、鬼門の方角にあたる 北国矢倉の石垣は北東隅を欠いた石積みとなっており、興味深い。

 

この他にも飲料や消火用の貯水施設であった用水や池、石垣石材を調達した石切場などが残っており、 要害の機能や築城過程の一端を うかがい知ることができる。




本丸。

矢穴が残る。

折れもあり最後の砦としての機能を有している。

 

詰城とは思えない位しっかりとした造り。

詰城から眼下を望む。

詰城最大のみどころ。

石材を割ろうとして断念したまま放置。

江戸時代も何百年も放置したのか。

こんな矢穴石もある。

余湖図

 

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

 

城の概要

城郭は山麓の平城と山頂の山城を併せた平山城で、山麓に本丸・二の丸・三の丸、山頂に要害を備えた。

 

山麓 の本丸(天守曲輪)は東西一一〇間、南北八〇間で一部を除 いて周囲を石垣で囲み、その上に矢倉(二ヵ所)と長屋(五〇間長屋と三〇間長屋)が置かれた。

 

二の丸との間には深さ七、 八尺ほどの内堀をめぐらした。内部には天守閣をはじめ藩主の居館や藩の諸役所が配置されていた。

 

天守閣は本 丸の西南角にあり、付櫓のある五層の複合式天守で高さ 八間、最上層は廻縁・高欄を設けた望楼風であった。

 

初層は東西一一間、南北九間で約二〇〇畳敷、石垣全面に 半間ほど張り出して石落しがあり、敵に対する俯射装置 になっていた。

 

本丸の出入口は東・西・南および東北の 四ヵ所にあり、うち主門は南の枡形門で、門前の橋は俗に極楽橋ともいわれ、現存する石橋とは異なり、約三分 の二が石垣、残りは板の跳橋で、事ある時はすぐ落せる ようになっていた。

 

山上の要害(詰丸ともいう)は周囲に石垣をめぐらし、そ の上に矢倉を七ヵ所に配していた。

 

内部は石段で東西に 区切られ、東側が本丸で東西二四間、南北二〇間、西側 の二の丸は東西一九間、南北二〇間で、貯水池が一つず つあった。

 

海陸を監視する要害番がいて、大組士一名と配下の手子中間五名とがその任に当たった。

 

藩主の代替りや幕府の巡見使・国目付が来藩した際には、要害巡視の行事があった。

 

 

所感

●指月城もあり最初は平城と山城の特徴のある城だと思ったが、実は海にも面していた。

●36万石で入ってきた為、突貫工事で普請を行い石垣の積み方の粗さもあるが、それでも立派な城。

●城の範囲は広く、毛利元就や妻の寺や海に面した部分の石垣確認をするとその巨大さが分かる。

●築城当時は指月山まで地続きではなかったようだ。

 

関連URL

萩に来る前の広島城。

【広島県】広島城【広島市中区基町】

 

 

参考URL

ウィキペディア(萩城)

城郭放浪記(長門萩城)

余湖くんのお城のページ(萩城)

 

参考文献

『山口県の地名』

『日本城郭大系14』

『山口県の地名』

公開日2021/1/31

 

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