城データ
城名:若山城
標高:217m
比高:200m
築城年:戦国時代
城主:陶氏
場所:山口県周南市福川
北緯東経:34.084371/131.726699
攻城記
麓に車をおいてそのまま整備された道を上がっていく。
攻城途中の風景。
本丸にはすぐ到着する。
縄張り図。
看板。
若山城跡
昭和六二年三月二七日指定
若山城は、大内氏の重臣陶氏の本城で、文明二年(一四七〇) 頃、陶弘護が石州津和野(現島根県)の吉見氏の進攻に備えて 築城したものと考えられています。
この城は、連郭式城郭とよばれる中世 山城の典型的特織を示し、中心をなす本 丸のほか、東西にのびる尾根上を利用し た郭や空堀・豎掘・壇床などの遺構がよ く残されています。
特に、本丸の北側斜面から東にかけて 残る大規模な畝状空堀群(豎堀)は、中世城郭の遺構をよくとどめており、全国 的にも極めて貴重なものです。
山口県教育委員会
本丸からの風景。
周防灘が広がる。
遺構はよく分からなかった。
余湖図
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
城は本丸・二の丸・三の丸と西の丸からなり、本丸は最も高い東部山頂にあ り、西の丸は本丸の西部の山頂にある。
本丸は東西三四m余×南北二〇m余、 面積五〇〇mばかりである。
東側は高さ八mの断崖をなし、その下に一段平地がある。
東側尾根の傾斜面 1段に切って、各脳一・五~一・八mばかりの断崖をつくって防備としている。
南側は天然の絶壁、北側には二条の空堀が設けてある。
西側は三段の平地をつくって各層断崖をなしている。
東峰の尾ばえは東南に延びて、二の丸一aばかり、三の丸一九八㎡ばかりの地がある。
しかし現在は駐車場となっており、 遺構は消滅している。
西の丸は東西四〇m×南北一五mで、この面積は五七八mばかりである。
東 側は高さ二・一mの石垣を築き、南西入り五・四m、北面入り三mばかり、そ の西側に高さ三・三mの斜面に中段をつくって断崖とし、南北二面は天然の絶 壁である。
本丸と西の丸との間は平地で、東西二九m×南北一五mばかりで、面積は約 四五二㎡である。
また、西の丸の西部に東西約一一m×南北約一五m、面積一 五八㎡の平地がある。
その西側急は傾斜をなし、一段低い所にまた平地がある。
東西四七m×南北三三m、この面積一aばかりである。
俗に蔵屋敷と呼んで いる。
城の歴史
文明2年(1470):陶弘護が石州津和野(現島根県)の吉見氏の進攻に備えて 築城。
天文19年(1550):陶晴賢はその主大内義隆に対して叛逆を企て、十一 月二十七日、その所領富田に還り、大いに若山城を修理して兵備を整えた。
天文20年(1551):八月二十八日、江良丹後守、宮川甲斐守を防府口から進め、自らは若山城を発して徳地口から進み山口を襲った。
弘治元年(1555):晴賢は毛利氏を討つため兵を安芸に進めたが、その嫡子五郎長房を若山城にとどめてこれを守らしめた。
十月一日、晴賢が厳島に敗 死し、その訃が山口に至るや、先に晴賢に殺された杉伯耆守重矩の嫡子重輔は 父の仇を報じようと家人二百余人を率いて、弘治二年二月二十日、急に若山城 押し寄せ、不意に乗じて三の郭を乗っ取った。
長房はひそかに城を 長穂の龍文寺に逃れたが、追撃せられ、力尽きて自殺した。
弘治3年(1557):毛利氏の周防経略に際し、若山城には長房の遺臣が少数残ってい たが、降参したのでこれを収め、長屋小次郎を城番とし、二百余人を付して守 らしめた。
しかし山口から毛利与三・野上内蔵助両人が二千余人を率いて押し 寄せ、城中に陶の降兵があって内応し、城内に火を放ったのでついに落城した。
毛利氏の兵は陶の家人野田寺内を討ち取って本陣に退いた。
よって毛利氏は将兵を派遣して毛利与三・野上内蔵助を追い払い、若山城を破却した。
城主家系図
護弘が築城し、興房がしっかり守り、晴賢が戦に敗れ、長房の時代に廃城となる。
所感
●陶氏は大内氏の家老として大きな力を持っていたので、城の大きなものだと思っていたが、そこまで技巧的なものではなく、戦国時代初期ような造りと感じる。
●陶氏は大内氏からの庶流。
●陶晴賢は最初隆房を名乗っていた(恐らく義隆の「隆」の諱を貰っている)しかし、主君である大内義隆を討った後は次ぎの主君である、大内晴英(のちの大内義長)から「晴」の諱を貰い、晴賢に改名している。
●陶氏は息子の長房が毛利に攻められて亡くなったため家が断絶してしまう。
参考URL
【陶晴賢の本城】若山城【空から攻める山城】ドローン空撮 Mavic2pro The Wakayama castle
参考文献
『日本城郭大系14』
『山口県の地名』
公開日2021/01/30