城データ
城名:石井城
標高:25m
比高:25m
築城年:南北朝時代か
城主:石井氏
場所:広島県安芸郡府中町石井城
北緯:34.402354
東経:132.511661
攻城記
周りは完全に宅地化しており、原型はとどめていない。
本丸跡と思われる場所に石碑が建っている。
石井城の城主は安芸国在庁官人である、田所氏の一族の石井氏の居城であった。
石井城跡
石井城は、安芸国の有力財長官人田所氏の一族である石井氏の城跡と伝えられている。
石井末忠は、元弘3年(1333)後醍醐天皇の綸旨を受けて伯耆船上山(鳥取県赤碕町)に馳せ参じ、延元元年(1336)には摂津湊川(神戸市)で足利尊氏の軍勢と戦って楠木正成などとともに戦死したという。
城跡の明確な遺構は残っていないが、山頂や周辺には数ヶ所の小規模な貝塚があり、この城と関連するものかもしれない。なお、現在の石碑は昭和11年(1936)に整備されたものである。
府中町教育委員会
石碑裏面
石井氏の事や戦いの事が記載されている。
別の石碑。
城跡からみた風景。
当時はこの麓は海であった。
向の山にも山城あり(多々万比城)
曲輪の跡では無いと思われる。
畑跡か。
近くには石井氏の惣領家である田所氏の田所明神社がある。
田所明神社。
田所明神社由来略記。
何故か1380年(南北朝時代)の広島の地図もあった。
拡大図これを見ると南北朝時代の海岸線が分かる。
完全に推測であるが600年以上前はこんな感じだったと思われる。
当然石井城付近も当時は麓まで海だったのではないか。
明治時代の地形図ではまだ山のような雰囲気がある。
しかし戦後すぐの航空写真では既に宅地化されており現状をとどめていない。
石井氏について
石井氏の惣領家である田所氏は安芸国の在庁官人であった。
平安時代から国衙領を押さえ中心的な家であったことは間違い無い。
鎌倉時代を経て南北朝時代になると、安芸国佐東地域であったこの府中にも動乱がありその中で石井氏が南朝に与したものと考えられる。
では何故南朝に与したかの疑問が残るが、佐東河以東の宮方勢力は安南郡新勅旨田をはじめとする国衙領や厳島社領に寄進されて約百年を経過している大覚寺統八条女院系統の安摩庄(矢野浦、江田島、波多見島)、能美庄(能美島)、開田庄 (安芸郡海田町)、田門庄(広島市安芸町)などはいずれも大覚寺統の八条女院領を中心としたものであった。
弘安年間には亀山院に伝えられ、さらに後宇多天皇を経て後醍醐天皇に伝えられた。
元弘の変(一三三二)など にも後醍醐帝の兵粮料所として国衙領とともに地方豪族(後の西国武士)のエネルギー源となっており、宮方の伝統を受け継いでいる。
このように安南郡から賀茂郡一帯は建武新政後も後醍醐天皇によって確保され、地頭の侵食や下地中分などが阻止されていた地域であった。
簡単にいうと、後醍醐天皇の領地がこの府中近隣にもあり、その関係上で在庁官人だった田所氏の一族であった石井末忠が南朝側として戦に参戦、湊川にて討死したということになる。
石井末忠
ウィキペディアから
元弘3年/正慶2年(1333): 後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画に呼応し、千種忠顕に従い六波羅探題攻めに加わる。
建武3年/延元元年(1336)5月25日 :湊川の戦いにて楠木正成に従い戦うが足利尊氏勢に討たれ戦死。
城主家系図
所感
●宅地化された場所に石碑があるだけの城跡であるが、この地域に600年以上前にも人がおり戦をしていた。
●安芸国は後醍醐天皇荘園料として縁が強く、南朝勢力が他の地域よりも大きかったのではと思われる。
●在庁官人もなかには守護大名の家臣化をして維持拡大を図った例もあるが、この田所氏に関しては戦国時代には在地領主としては大きな勢力にはならなかった。
参考URL
参考文献
『府中町史』
公開日2021/01/30