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城データ

城名:龍王山城

標高:45m

比高:45m

築城年:戦国時代か

城主:檜垣肥前

場所:広島県呉市阿賀中央

北緯:34.238779

東経:132.594380

 

攻城記

本丸跡

現在は神社になっている。

龍王神社

龍王=じおう

と訛っている。

 

神社跡の本丸から見た墓所。

この部分も曲輪跡だと思われる。

本丸からの風景。

当時は全て海であった。

本丸から少し降りた場所。

若干の平削地がある。。

人工的な石積みか不明。

周辺。

龍王山城の矢竹。

 

余湖図

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

神田神社

麓には神田神社がある。

神田神社の説明の中に以下の記載がある。

永正年中(一五〇四~一五二〇)に源盛勝が宇神達の森峯に神殿を奉造した由が、古い棟札に記してある。

戦後時代初期に「源盛勝」という人物がこの地域の支配者だったと思われる。

城主が檜垣肥前とあるので本人かその親かもしれない。

 

檜垣氏について

呉には山本氏・檜垣氏・警固屋氏らが「呉衆」という小領主連合を形成し、周防の守護大名大内氏に属した。

阿賀を支配した檜垣氏(出自不明。和庄檜垣谷を名字の地とするなら呉保荘官の系統。伊予に多い檜垣氏なら伊予衆)は、龍王山城 (阿賀中央八丁目)を居城とし、大内氏から広にかなりの 給地を与えられていた。

 

尼子氏の安芸侵攻

永正10年(1513)年頃から尼子経久が勢力拡大し安芸国まで支配下に治めていた。

尼子軍の南下を機に矢野の野間氏は積極的に尼子方につき、一気に呉地方を支配下におさめた。

本拠の呉・警固屋を奪われた「呉衆」は、尼子方に降伏することなく大内方にとどまった。


大内氏の反撃

その後、大内氏は大永4年(1524)、ようやく佐西郡廿日市桜尾城の厳島神主家と神領衆を従属させ、本格的反撃の準備を進めた。

小早川弘平は、6月5日、神領方面に派遣していた賢勝に対し、賢勝指揮下の警固衆を増強するために「倉橋右馬助」・「能美兵庫助」「長浜」「桧垣大四郎・神兵衛両人」に各1艘、自ら乗船して出陣させ、小早川からも1艘出陣させた(県史V)。

 

「倉橋右馬助」は倉橋多賀谷興重であると思われ、ここでも多賀谷・能美・呉衆檜垣氏(広の長浜を名字とす武士も呉衆の一員であろう)の「三ヶ島衆」が統一行動をとっている。

 

『広島県史』古代中世資料変Ⅴ

小早川弘平書狀(切紙)

尚々各々辛勞之儀候へ共、此節肝心候間馳走賴入候由、能々可被仰聞候、

神領面時宜如何ニ候哉、御、所、候ハん由候間待申候処、于今無其儀候、無御心元候、珍敷子細候て急度可承候、仍而近日南上野介申付下候する心中と、其方けいと(警固)之事、以廻文申候、此分其事も堅可被仰与候、然者倉橋右馬助一艘 能美兵 庫助一艘 長濱一艘 檜垣大四郎神兵衞兩人一艘乘候て罷出候 へと申付候、此方か一艘可下候間、以上五艘ニてあるへしと 其分御心得肝要候、一兩日中たるへく候、無油斷用意候て罷 出候へと可被仰与候、吳々下候時者切々可承候、恐々謹言、

六月五日 弘平(花押)

乃美備前守殿

 

大永5年(1525)3月に安芸国人衆の中心、毛利元就を帰服させることに成功した大内義興は、尼子方に対し全面攻勢に転じ、大内軍司令官陶興房は、尼子方国人衆攻略のため、各地に転戦する。

4月5日・6日両日、陶軍は廿日市の本陣から渡海し、矢野の野間氏を攻撃した。

 

同じ日、の作戦に呼応して瀬戸城の賢勝率いる小早川警固衆・呉衆らは呉方面から野間方を攻撃するため呉千束に上陸して「呉千束要害」(海上自衛隊呉地方総監部の掘切をはさんだ城山)を前進基地とし、集落(呉教育隊、市民公園=練兵場。近世の呉町)に火を放ちこの方面を制圧した(県史V)。

この戦いで呉から野間勢を排除した呉衆山本氏・檜垣氏・警固屋氏らは、ようやく旧領を回復した。

 

厳島合戦後前夜

天文23(1554)年5月、毛利元就は陶晴賢との提携を破棄し、一挙に佐東銀山・己斐・草津・桜尾の諸城及び厳島を占領した。

晴賢の石見攻めに瀬戸賢勝の配下として参加していた呉衆・多賀谷氏・能美氏の「三ヶ島衆」は、毛利氏に人質を差し出していたが、吉見攻めの陣中にあった山本四郎賢勝は、7月、人質を見殺しに「呉惣衆中」を率いて陶=大内方に立つ意思を表明した。

倉橋・蒲刈両多賀谷氏、能美氏も同調した(県史V)。

 

一方、瀬戸(浦)賢勝は、8月2日の津和野合戦を最後に戦場を去り、瀬戸(音戸町)に帰った(『閥閲録』69)。

長い間、ともに戦った浦賢勝と三ヶ島衆は、ここで決別したのである。

 

以後、賢勝は瀬戸城を拠点に、これまで味方として戦ってきた呉衆ら「三ヶ島衆」と、敵として戦うことになる。

「三ヶ島衆」の大内=陶方への復帰に対抗して、8月、小早川隆景は、賢勝の帰国を待たずに呉地方を接収して呉・瀬戸に要害を建設した。

呉衆は帰るところを失った。

 

9月、帰国した賢勝・宗勝父子が率いる小早川警固衆、瀬戸要害・呉要害を基地に、同じ時期に帰国した陶方、白井賢胤・「三ヶ島衆」らが活動拠点とする能美島周辺に出没して敵船を攻撃し、同29日、毛利方阿曽沼軍とともに総攻撃をかけ、能美島を占拠した。

このとき能美氏は降服した(『閥閲録』48ほか)。

 

能美島を失った呉衆・多賀谷氏ら陶方警固衆は、10月、弘中新四郎にかわって「警固奉行人」(大内水軍総司令官)に任命された仁保島の白井賢胤の指揮下で活動することになった。

 

翌24年=弘治元年に入ると、白井賢胤率いる陶方警固衆は制海権の回復をめざし広島湾頭で活発活動を展開する。

「正月1日佐西郡草津、同佐東川内矢賀·尾長、 同18日佐東浦河口、3月15日呉浦を襲い、呉浦では小早川方船を1艘討ち取っている(県史V)。

 

この頃、矢野の野間隆実が毛利氏にそむき、3月晦白、白井(本拠を失った呉衆も加わっていたであろう)・野間連合軍は仁保・海田で毛利阿曽沼軍と合戦して敗れ、4月11日、隆実は毛利軍に矢野保木城を攻められ降伏した(『陰徳太平記』ほか)。

 

5月、小早川隆景・瀬戸(浦)宗勝の命を受けた有田拾次郎が多賀谷氏のもとに降伏をすすめる使者として派遣され、この降伏勧告を受け入れて小早川氏の軍門に降った(『閥閲録』168)。

 

この降伏勧告を拒絶した倉橋多谷氏は、8月、圧倒的な小早川軍の攻撃をうけて丸子山城は落城し、多賀谷興重は城を枕に討ち死にした。

瀬戸(浦)氏率いる小早川警固衆は倉橋賀谷氏を支援していた白井賢胤率いる陶方警固衆を大いに破り、追い払った(県史V )。

 

以上の厳島合戦の前哨戦ともいえる広島湾・呉湾での毛利方・陶方警固衆の一連の海戦では、瀬戸(浦)賢勝・宗勝が指揮する小早川警固衆が、白井賢胤・山本賢勝が率いる陶方警固衆を圧倒した。広島湾の制海権は毛利方が抑えたのだった。

 

これによって「呉衆」は瓦解したと思われ、「呉衆」の一員であった、檜垣氏も没落したものと考えられる。

 

城主石高

阿賀の田畠・十三貫七百三十文分

公文給分の田畠・四貫五十文分

とされる。

 

この中で公文給分の田畠があることもから、呉保荘官の統の可能性が高いのではないか。

 

檜垣氏推定所領地

現在の呉市広の大部分は当時海であった。

【広島県】杉迫城・堀ヵ城【呉市】

【広島県】警固屋城・小浜城【呉市警固屋】

 

その後の檜垣氏

檜垣氏の一族の中には天文23年(1554)に小早川水軍の能美島攻撃に参加したものもおり、一族の中でも小早川(毛利)氏に属した家もあったようだ。

 

小早川隆景感狀寫 (賀茂郡風早村庄屋善左衛門藏)

今度能美浦働之時、船本へ敵張り出之刻、父新太郎無比用候、聊不忘却候、忠儀之段到子孫可成其感候、連々可申与 候、謹言、

(天文廿三年)九月十九日   隆景判

(林次郎左衛門)

檜垣槌法師殿

ただしこの槌法師は後に林家に養子に入ったようだ。

 

その他呉衆

【広島県】龍王山城【呉市阿賀中央】

 

 

所感

●呉市の休山の一角にこの檜垣氏が所領を得ていたものと考えられる。

●呉衆という小領主のなか、大勢力の狭間に翻弄された一族であった。

●音戸の領主であった浦氏と呉衆の関係もあり興味深い。

●一族の中には陶氏に組みせずに、小早川氏に属した一族もいたと考えられ、惣領家が没落した後も全てが没落した訳でもなさそうだ。

 

参考URL

城郭放浪記(安芸龍王山城)

戦国日本の津々浦々(呉衆)

戦国日本の津々浦々(檜垣肥前守)

戦国日本の津々浦々(檜垣新太郎)

広島県のお城(龍王山城)

 

参考文献

『中世の呉』(呉市史編纂委員会編『呉市制100周年記念版 呉の歴史』)

『音戸町誌』

『広島県史』古代中世資料変Ⅴ

公開日2021/1/16

 



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