亀山城

城データ

城名:亀山城(現在の八幡神社)

標高:31m

比高:17m

築城年:南北朝時代頃までには築城

城主:中村十郎左衛門久枝(山野井氏の系統か)

場所:広島県江田島市能美町中町

北緯東経:34.214275/132.443304

亀山城はここ

 

 

攻城記

能美町図書館の隣にある。

攻城開始

数分で神社に到着、ここが本丸と推定。

神社一帯は細長い平削地になっているが、曲輪などは見当たらない。

雑木林の中に若干の平削地があるが、神社の平削地からの延長線上にある。

降りたところから見上げる。

特段加工されている感じは受けない。

 

城の歴史

正平二十年(1365)、北朝方であった伊予守護家の河野通堯(のち通直)が讃岐の細川頼之に本城を攻め落されて南朝方に降伏し、九州の南朝征討将軍懐良親王のもとに逃れたとき、能美・厳島の両所に三か月にわたって滞在することとなる。

通堯が能美島に逃れたのは、能美の中村十郎左衛門が河野の有力武将久枝氏の縁者であった からで、中村十郎左衛門は、通堯が九州へ出発するとき、船を仕立てて海上に出ているところへ、通堯と同様、 細川軍の侵入によって敗走していた伊予の今岡通任が来たので通堯を通任の船に移したという。

旧版『大柿町史』は、中村十郎左衛門について、「能美氏が当時の の居所を苗字として、本姓とは別に高田十郎三郎とか衣田千代丸と称したのを以て考えれば中村を本拠とする能 美氏に当るのではないか」としながら「江田島の久枝氏や大原の山野井氏がその系図に示すように河野氏の支流 、かれらの所にこそ(※通堯が)落着くのが当然であろう。

 

中村氏について

中村氏は亀山城城主であり、能美氏の庶流である可能性が高いが、萩藩の能美氏家系図の中に中村氏がいる。

 

中村と名乗った一族が山野井氏の庶流としている。

この子孫が中村十郎左衛門の可能性も否定出来ない。

 

所感

●南北朝時代にこの地域の領主であった中村氏が久枝氏の縁者ということ、久枝氏が河野氏の庶流であることからも、この中村氏も河野氏と婚姻関係やその血筋を持っているものと考えられる。

 

●南北朝時代の当時は今の海岸線がもう少し内陸に入り込んでいたため、港に突き出た山城だったと想像できる。

 

●現在は八幡宮になっているが、頂上部分が平削地になっている位で特段、城という感じはしない。

 

●詰城が新蔵城(現在の真道山)だったのではないかと思われる。

 

open-hinataより【亀山城】

 

 

新蔵城

城データ

城名:新蔵城(現在の真道山)

別名:唐光寺山城

標高:286m

比高:280m

築城年:南北朝時代頃までには築城か

城主:中村十郎左衛門久枝か

場所:広島県江田島市能美町中町~能美町鹿川

北緯東経:34.207183/132.453699

新蔵城はここ

 

 

攻城記

山頂(本丸?)

山頂から能美町高田方面を望む。

小屋城や堀越城が見える。

眼下には亀山城(八幡神社)も見える。

能美町鹿川方面を望む。

現在は真道山となっているが、車で麓まで行ける(そこから30m位上がる)

車を止めたところから西方面にも尾根筋があり、そこにも若干の平削地が認められる。

 

所感

●恐らく亀山城(八幡神社)の詰城だったと思われる。

 

●唐光寺山との別称から寺院があったとも考えられる。

 

●山頂の加工はされておらず、山頂が平削地になってはいるが、当時のものかは不明。

 

open-hinataより【新蔵城】

加工された跡もなく城だったか不明。

 

堀城

城データ

城名:堀城(現在の二宮神社)

標高:12m

比高:12m

築城年:南北朝時代頃までには築城か

城主:児玉就忠、能美左馬亮、大野次兵衛、松田善之進ら

場所:広島県江田島市能美町中町

北緯東経:34.221226/132.439196

堀城はここ

 

攻城記

現在は二宮神社になっている。

本丸部分に神社が建っている。

本殿。

恐らくこの部分も曲輪跡だと思われるが壊変されている。

本丸跡から見下ろす。

二宮神社付近から中町港を望む。

中世はこの山麓まで海であったと思われる。

 

所感

●現在は住宅地の中にある神社となっているが、当時は岬の突端にあったものと考えられる。

 

●城主等の詳細は不明であるが、恐らく能美一族の庶流が支配していたのではないか。

 

●戦になればここから撤退して近くの詰城である麓城に逃げ込んだと思われる。

 

open-hinataより【堀城】

 

 

麓城

城データ

城名:麓城

標高:54m

比高:20m

築城年:南北朝時代か

城主:児玉就忠、能美左馬亮、大野次兵衛、松田善之進ら

場所:広島県江田島市能美町中町

北緯東経:34.220626/132.434391

麓城はここ

 

攻城記

麓城全景

城から海を望む。

このあたりも曲輪跡か。

城郭は竹藪化されている。

少し上がると帯曲輪を発見。

そのまま直登すれば、すぐに本丸に到着。

謎の石、ここが山頂部か

土塁跡。

本丸から見下ろす。

本丸を見上げる。

全体的に壊変も進められている。

 

open-hinataより【麓城】

 

 

余湖図【麓城】

 

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

城の遺構は最高所の1郭(26m×21m)とその東側を取り込む小郭郡、帯郭からなる。

 

1郭西側に土塁状の残丘がある。

 

1郭の南側切岸はコンクリートで固められている。

 

小郭郡の東下に帯郭が巡る。

 

広島県中世城館遺跡総合調査報告書より引用

 

新蔵(真道)・麓・堀城跡(中町)

中時の八幡神社のある亀山城跡は、その麓まで海が迫る水軍城 が蔵山城跡は後詰城であったという。

 

それらは正平二〇(一三六五)、河野通堯をかくまった中村十郎左衛門尉久枝の居城であったといわ れている。

 

その後大永五年(一五二五)、大内氏より所領を安堵された能美維殿允仲次は、中町長石の堀城跡を水軍城、麓の麓城跡を後詰城としたようである。

以後、

天文一五年(一五四六)、毛利家臣の児玉就忠(「佐東町史」)、弘治元年(一五五五)、能美左馬亮(「閥閲録」)、天正一〇年(一五八二)、 西能美島八二・四石を給せられた河野旧臣大野直房四男次兵衛「大島郡史談」天正一九年、毛利家臣の松田善之進がそれぞれ城主として入城し たといわれている。

 

『能美町史』より引用。

 

 

所感

●能美町中町の4城のなかで一番加工されて山城である。

 

●城は小規模ながらも曲輪、帯曲輪などもあり、壊変される前はこの地域では規模も大きな城であった可能性がある。

 

●資料が残っていないが、『芸藩通志』に松田善之進との記載がある。

 

 

城の位置関係

戦後間もない頃の航空写真。

周辺は全て田んぼになっている。

 

 

 

『芸藩通志』から引用加工

 

関連城

【広島県】能美城【江田島市大柿町大原】

【広島県】麓城【江田島市大柿町大原】

【広島県】小屋城・堀越城・小城・北堀城【江田島市能美町高田】

 

参考文献

『大柿町史』

『能美町史』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『日本城郭大系13』

『芸藩通志』

『萩藩諸家系図』岡部忠男著

公開日2021/1/11



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