城データ

城名:神西城(じんざいじょう)

別名:龍王山,竹生城,高倉城

標高:101m

比高:90m

築城年:貞応2年(1223)小野高通が相模国鎌倉から地頭職として下向したのでそれ以降に築城。

城主:神西氏

場所:島根県出雲市東神西町

北緯東経:35.3148807/132.6974066

神西城はここ

 

攻城記

麓の看板。

十楽寺は神西寺の菩提寺であった。

攻城の最初は歩きやすい。

歩道も整備されてさくさく登れていける。

神西城の矢竹。

あっという間に本丸に到着。

広さはあるが特に加工されて感じはしない。

東側を望む。

神西湖方面。

本丸の看板。

神西城跡

この山城を一般に神西城というが、正式には龍王山竹生城という。

貞応二年(一二二三)相模国鎌倉から小野高 通が地頭として下向し、ここに築城したとい われる。

以後、神西の地名をとって神西三郎左衛門 を襲名し一二代続いた。

城郭の最高所は那賣佐神社の裏山で、標高 一〇一メートル、神西湖や出雲平野が一望で きる。

主郭三、小郭一〇余、堀切や土塁の一 部が残っている。

出雲国西部における軍事上 の要衝として、尼子十旗の一つとされた. 城主神西氏に関する資料は乏しいが、いわ ゆる尼子時代の後期に活躍した神西元通は有 名である。

元通は、尼子勝久らと尼子家再典 を目指して毛利軍と戦い続けたが、天正六年 (一五七八)播磨国上城(兵庫県上月町) の戦いに敗れ自刃した。

昭和六十三年七月

神西きちづくり推進協議会

 

南側郭の端から南方面。

本丸としては相当数の兵士を駐留することが可能。

眼下をアップ。

 

余湖図

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

概 要
神戸水海(現神西湖)の南岸に接する位置にある。中世の斐伊川の主流は神門湖に流れていたものとされることから、水運を意識した城郭であったと考えられる。
主郭は最高所と考えられるが、近年の公園化による破壊が著しい。この城郭の最大の特徴は普請の度合いである。
全体的に壁や虎口、連絡通路の普請は十分であるが、郭内部は削平が不十分なものが大半である。
城郭としては未完成なものといえよう。「雲陽軍実記」では、大内義隆は追手、揚め手を赤穴、神西にさだめて出雲国中に攻め入るよう記している。
富田城の尼子氏を攻めた際に、後方支援施設として毛利軍に使用された可能性がある。

島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用

 

城の歴史

貞応2年(1223):小野高通が承久の乱後に新補地頭として神西の地に入部する。

明徳3年(1392):性通なる人物が息子の六郎清通に所領を譲り渡した「譲状」が知られる。

明徳4年(1393):「春日文書」によると、出雲守護の京極高秀が「当国神門郡朝山郷の内、稗原左京亮跡、但し稗原を除くの事、給恩となし相計る所なり」と所領を「神西三川三郎」に宛行われている。

※三川三郎=清通か?

応永11年(1404):「守護奉行人連署奉書」の充て所に大熊信濃入道と並んで「神西三河守」が記されている。

※この文章は守護高光の命を奉じて京極家の二人の奉行人が発給したもの。

康正2年(1456):「守護奉行人連署奉書」にも三沢対馬守、牛尾神五郎らと並んで「神西三河守」の名前が見える。

※応永11年の「三河守」とは親子関係だと思われ、この時期の官途名が「三河守」を世襲していたものと推測できる。

内容は、日御碕社と杵築大社の境界争いの調停を守護の京極持清が「神西三河守」に命じた内容。

文明元年(1469):瀬戸山城の赤穴幸清が神西城攻撃をし家来十数人が討死する。

【島根県】瀬戸山城【尼子十旗4城目】

明応8年(1499):「神西越後守」が神門郡奉行職に守護の京極政経から任命される、「三河守」の子どもか孫に比定される。

戦国時代:京極氏から尼子氏に臣従する。

天文4年(1535):神西久通が三郎左衛門尉に家督を譲る。

永禄6年(1563):毛利氏と尼子氏との間に合戦があったが尼子方の敗戦に終わる。

この敗戦によって尼子方の武将の多くが毛利に下り、神西三郎左衛門も毛利氏に下る。

永禄8~9年(1565~66):毛利氏が富田城へ総攻撃をしかけたとき、大手門を守っていた諸将十四人のうちに神西三郎左衛門元通の名がみえている、がしかし、月山富田城が落城するにおよび再び毛利氏に臣従する。

※毛利氏に降った神西三郎左衛門元通は、伯耆の末石城主に配される。

永禄12年(1569):山中鹿之助を盟主とする尼子の残党が京都東福寺で僧になっていた尼子一族の勝久を奉じて出雲へ攻め入った。

鹿之助は末石城の神西三郎左衛門元通に書状を送って、味方に誘う、これに神西三郎左衛門は応じ、尼子勝久を擁した尼子勢は出雲を席巻。

永禄13年(1570):布部山の戦いに敗れた尼子勢は、次第に勢力を失墜していき、翌年になると出雲から京へと退去するほかなかった。そのなかに、神西三郎左衛門元通の姿もあった。

以後、神西元通は尼子勝久と共に兵庫県の上月城に籠城するも落城切腹する。

天正6年(1578)年の事である。

 

城主家系図

神西家の世代順は、元祖が高通であることでは一致しているが、その後の順は不明。

元禄10年(1697)に武田和泉守が編纂「八幡大神古証文」によると、高通、元通、景通、時景、貞景、清通、惟通、為通、廣通、連通、久通、国通、の12代になっている。

 

 

しかし、これは一般的に云われている神西氏の家系図である。

神西元通は上月城の戦いにて切腹している。

また、萩藩閥閲録の中には神西家が記載されており、その中には大内氏から長門国にて所領を賜っている家系が存在する。

 

神西久通と元通の関係

家系図では神西久通と元通は親子になているが、庶流からの家督相続者の可能性がある。




天文4年(1535)の12月1日付にて神西久通は、三郎左衛門尉に当てて次のような譲り状をしたためている。

今度われら牢籠につき、本領職のこと御抱え候、いささかも等閑にあらず候、われら身上果ておき候とも、又者あい関わり候とも、神西家(督)の義、貴所へ進めおき候、ならびに代々のしせう(支証)等の義、これまた渡しおき候、よってゆつり (譲り)状くだんの如し

天文四年十二月一日  久通(花押)

三郎左衛門尉殿

御宿所

 

大意は、「私どもが牢籠のため、その間本領を支配していただいたことは決して忘れは致しません。我が身が 滅ぽうとも、家来どもが干渉しようとも、神西家の家督はあなたに譲ります。また代々伝えてきた証文類も同様 にお渡しします。」というほどの意味である。

 

「われら牢籠につき」の文言から文字どおりに解すると、神西氏の嫡流 かいえき (神門郡奉行越前守の家系)は何かの事情で困窮したか、あるいは改易されるかして、本領を離れていたのであろう。そしてその時期は、文亀元年(1501)以降のことと推定される。

なぜならこの年の一二月二七日に、 守護の京極政経が神西左京亮にあてて「官途のこと子細あるべからず」とする安堵状を送っており、この左京亮が神西越前守の嫡子と推定されるか らである。

したがってこれ以降のある時期に、具体的にどのような事情が あったかは明らかでないが、神西氏の嫡流は所領を離れて「牢籠」したのである。

そして嫡流、つまり神西一族の惣領と考えられる久通(左京亮か)は本領復帰を果たしたものの、神西家の家督と相伝の文書を一族の三郎左衛門尉に一括して譲渡せざるをえないという立場になったと考えられる。

 

上記の推測に立つと、神西三郎左衛門尉は神西氏の庶子家が所領を離れていた間,本領に残り、惣領家に代わるだけの実力を蓄積していたものと考えられる。

それは、月山富田城の攻城戦時に久通と元通が分かれていたことからも窺われる。

 

神西家の本流

萩藩閥閲録等から神西氏について以下の記載が判明している。

長門国において弘治2年(1556)に「神西惣左衛門信通」が大内義長から長門国で75石の地を宛てがわれている。

また、同じく弘治2年(1556)に「神西六郎左衛門」が但馬守を所望したのに対し、大内義長が室町幕府に推挙する約束をする。

弘治3年(1557)には毛利元就が長門国豊西軍新善光寺の14石の地を「神西丹後守」に安堵する。

※「神西丹後守」の父が「神西公通」と分かっていおり、また「公通」は「六郎左衛門」である可能性が高い。

※別の書状では「神西丹後守」が「綱通」とされ、子どもが「亀寿丸」ともある。

天正5年(1577)に神西小次郎が掃部助に叙任される。

この神西氏が何故長門国に所領を得たかというと、大内義隆の月山富田城攻城の際に敗北、そして敗走時にこの神西経由で帰国している。

その時に庶流の神西氏は大内陣営についていたと考えられる。

そして、本流であった、久通の息子と考えられる「信通」や「公通」らは大内氏と一緒に長門国に落ち延びていったのではないかと考えられる。

そこでその後大内氏から所領を得られたのではないか?

 

久通自身は神西の地に戻り家督を庶流の元通に委譲、ただし、嫡子や庶子にあたる「信通」や「公通」は大内氏、後に毛利氏に臣従一部は同地にて帰農。

 

城主石高

「尼子分限帳」の中では足軽大将として神西三郎左衛門として4666石の所領がある。

 

また永禄五年(1562)の二月、神西三郎左衛門尉元通は尼子義久から次のような安堵状を与えられている。

神西越前守当知行の事

一、神西庄波賀佐村

一、久村

一、清松村

一、新本庄の内三分

一、智伊宮村の内

一、大東の内正法院名

右、父広通当知行、相違なく領知有るべきものなり、よって件の如し

永禄五年二月十九日  義久(花押)

神西三良左衛門尉殿

 

また、「毛利氏八箇国御時代分限帳」の中に神西氏が2名記載されている。

神西惣左衛門 145.693石 出雲神門

神西二兵衛  126.030石 出雲大原

 

惣左衛門は「信通」若しくはその息子だと考えられる。

二兵衛も「公通」の系統と考えておかしくは無い。

1591年頃の所領として既に豊臣秀吉の時世である。

 

所感

●山城としては加工度も緩やかで、毛利氏の尼子氏征伐時以降に大幅改修したのではないか?

●ただし、この地域を押さえないと東部戦線に侵攻できないことを考えると、神西湖周辺のこの地域は重要拠点だったと思われる。

●麓には十楽寺があり神西氏の菩提寺であった。

●神西元通が一番有名であるが、実は庶流からの家督相続であり、この時代は嫡流と庶流の争いのなかで元通が家督相続をしたらしい。

●しかし最終的には長門国で大内若しくは毛利氏に臣従していた嫡流が尼子氏を滅ぼした前後に復帰したという興味深い事実がある。

 

参考URL

神西城(ウィキペディア)

城郭放浪記(神西城)

西国の山城(神西城)

武家家伝_神西氏

神西村史目次

 

参考文献

「日本城郭大系14」

「島根県の地名」

「島根県地名大辞典」

「尼子盛衰人物記」

「尼子氏一門のルーツ」横山正克著

「出雲の山城」

「湖陵町誌」

 

公開日2020/01/03

 

ホームに戻る

攻城一覧

 



Copyright © 山城攻城記 All Rights Reserved.