城データ

城名:馬木城(まきじょう)

別名:夕景城、馬来城,寒峰城,感目城,矢筈山城

標高:937m

比高:420m

築城年:室町時代

城主:馬木(まき)氏

場所:島根県仁多郡奥出雲町大馬木

北緯東経:35.09866/133.03911

馬木城はここ

 

 

攻城記

近くまで来てもこの比高がある。

登り口は無いので直登していかないといけない。

 

山自体は藪化していないため、時間はかかるが少しづつ登っていく。

途中からは道なき道をとにかく上がっていく。

山頂近くの画像。

やっと山頂に到達する。

 

国土地理院の三角点があり本丸の地点だと分かる。

見通しは悪いが比高は相当あるのが分かる。

土塁跡。

曲輪は多く広い部分もある。

整備されていたら価値ある山城。

若干石積の跡もある。

帰り道の下山中の画像。

まだこのように伐採していたので登りやすかったが麓から木々があったらかなり難しい攻城になっていたに違い無い。


余湖図

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

夕景城は矢筈山とも称し、東西二つの嶺があり、それぞれに城郭が築かれている。

主郭は西側の最高所と考えられ、尾根筋に櫓台を築いている。

主郭から北西に延びる土塁は防御ラインよりも風除けとして築かれた可能性も考えられる。

高所に築かれたにもかかわらず、普請は十分であり、主郭の西側には石垣のコーナー部分が確認できる。

馬来氏の居城として知られている。

島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用

 

城の歴史

明徳年間以前(1390~1394):山名師氏の子供氏綱が功により足利義満よりこの地を給せられ摂津国馬来郷より来住して築城する。

明徳2年(1391):明徳の乱において馬来満綱は山名方につき討死。

戦国時代 尼子氏に従うようになる。

永禄4年(1561):三沢為清は三刀屋・赤穴氏らとともに毛利氏に降り、高野山久意と協力して馬来城に攻め寄せて落城させる。

天正17年(1589):馬来氏も毛利氏に帰服し三沢氏のように安芸に移住していったという。

そのとき、馬木孝綱は老齢であったことから馬来に残り、幼少であった孝網の嫡子元貞が外祖父に伴われて安芸に移り毛利氏に出仕した。

 

夕景城の戦い

永禄四年(1561)毛利元就は出雲へ進攻し、真木氏の矢筈山夕景城に迫った。

三沢為清はそのころ毛利軍に属していた。

高野山城主首藤久意らとともに真木氏の支城高尾城を攻め落とし、次いで弓幡城攻撃軍に加わった。

為清は手勢を二手に分けて板敷と上市から攻め立てた。

夕景城の攻防は三昼夜 に及んだが、遂に落城し弓幡城の残兵も城に火を放って月山城へ逃れていった。

 

城主家系図

城主石高

馬木惣兵衛 200.008石 出雲 秋鹿

惣兵衛=元貞

 

所感

●最初城を確認したときには余りの高さに難しいと思ったが、周辺を調査して登り口を発見。

●発見してもどのように攻城するか、国土地理院の地形図を確認しながら慎重に検討。

●数回現地確認してからアタックしたが、困難な攻城であった。

●このような比高があるため、ある時期に麓の小林城に移動したとあるが、平時でもここに居住するとは考え難い。

●1561年に三沢氏に攻められて落城するが、比高があっても落城する例。

 

参考URL

城郭放浪記(夕景城)

西国の山城(馬木城)

 

参考文献

「日本城郭大系14」

「島根県の地名」

「萩藩諸家系譜」

「毛利氏八箇国御時代分限帳」岸浩著

公開日2020/01/03

 

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