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城データ



城名:高瀬城

別名:高瀬山城

標高:304m

比高:200m

築城年:戦国時代か

城主:米原氏 吉川元春

場所:島根県出雲市斐川町神庭

北緯東経:35.362922/132.863522

高瀬城はここ

 

攻城記

麓に看板があり分かりやすい。

このような看板があると本当に助かる。

鉄砲立付近。

尾根の先端部分で敵からの攻撃をここで食い止める為の曲輪。

小高瀬、毛利軍がここまで攻め上がってきたということはほぼ落城寸前であったということ。

それでも、最終的には開城したとあるので粘っていた。

周囲の地形

門石のような気もする。

これはなんでしょうか?

もうすぐ本丸。

本丸部分。

本丸看板

高瀬山

高瀬山は尼子方の支城、高瀬城があったので 有名である。

 

高瀬山の名の由来は太古、宇夜都弁命がこの山に遊ばれたところ、山の頂に清水 が湧いていたので「高清水」と詔り給うたので たかせ山の名とした。

 

しかし、その後いつか「高瀬」と 呼ぶようになったという。 そしてここを要害の山として、暦応年中(一三三八~一三四一)に建部内蔵伊賀が築城した。

 

城はその後、戦国時代に尼子氏の重臣、尼子十旗の一将として米原綱広が城主となる。

 

難 攻不落とされた名城であったが、その子、米原 綱寛の代、天亀元年、(一五七〇)毛利軍の総攻撃 を受け、尼子軍最後の拠点として勇敢に戦った が、激しい戦の末、翌年三月十九日ついに城を 明け渡すことになる。 そして、天下平定の後ふたたび建部氏の居 城になったという⋯。

 

斐川町観光協会

 

 

本丸からみた出雲平野。

松江市のほうも分かる、こちらの白鹿城に最終的には逃れていった。

周辺は厳しい地形であり、敵の攻撃を寄せ付けない城であった。

 

余湖図

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の説明板

登城口

高瀬城の城主米原氏は、出雲の戦国大名尼子氏の重臣で、「尼子十旗」の第六城に位置づけられている有力武将でした。

 

元亀元年(1570)から翌年にかけての毛利輝元の包囲攻撃によく耐えましたが、戦死するものも多く、また、兵糧や矢玉も尽きてしまい、

元亀2年3月19日ついに落城しました。

 

時の城主綱寛は尼子勝久のたてこもる真山城(松江市法吉町)に逃れ、再び戦ったと言われています。

 

城山は標高329.4メートルの険しい独立丘、城郭は三の丸、二の丸、甲の丸(頂上)どから成り立っていましたが、今は跡かたもなく、わず

な平地土塁の残りに、兵どもの夢を偲ぶだけです。

 

 

城の概要

概 要
簸川郡と大原郡の境に位置し、北に簸川平野を一望し、南に高麻城と赤川周辺の地を望むことが出来る。

 

急峻な地形を利用して築かれ、「大高瀬」、「小高瀬」、「鉄砲立」と呼ばれる防御拠点から構成されている。

 

主郭は最高所「大高瀬」と考えられるが、規模の小さい郭が続く。「大高瀬」西側に「駄置場」と称する鞍部を隔てて位置する。

 

「小高瀬」は駄置場方面こそ普請が不十分だが、簸川平野に面する方面は規模の大きな郭が続き、普請も十分である。「小高瀬」が主城で

「大高瀬」は詰めの城とする解釈もある。

 

米原氏の居城として知られ、元亀二年(1571)の毛利軍との籠城戦時には、周辺に尼子、毛利両軍の陣城が多数築かれたと伝えられる。固屋谷、七曲がり、御局谷等の地名が残る。

 

島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用

 



高瀬城

神庭の南東、標高319メートルの高瀬山にあった山城。

 

東の大黒山から西の仏経山に続く山脈は通称南山とよばれる。

 

この間にあるのが高瀬山で、戦国期に尼子氏 の防衛体制の重要拠点であった。

 

甲の丸(大高瀬)と二の丸(小高瀬)低丘陵の鉄砲立の三段階からなる独立丘陵と頂 上部から北西約400メートルに位置する標高252メートルの平坦地を中心とする郭群、さらには高瀬山から 北に延びる宇屋谷と神庭谷に挟まれた丘陵上の郭群からなり、石垣などはみられない。

 

築城時期などは不明だが、尼子氏の下で吉成・神森(神守)を支配した米原氏がその拠点とし(永禄六年三月一日「尼 子義久書下」米原家文書)、出雲十旗の六番目に記されてい るように(雲陽軍実記)、出雲国における軍事的要衝であっ た。

 

米原氏は永禄五年(1562)には毛利方に降伏した が、同一二年尼子勝久による尼子再興戦が開始されると 再び尼子方に戻った。

 

元亀元年(1570)月の布部城  (現広瀬町)の合戦で尼子方が敗北すると、高瀬城は新山城 (現松江市)と並ぶ尼子方の拠点として毛利方の攻撃を受け るようになる。

 

毛利方による兵糧攻めが功を奏し、元亀 二年三月一九日高瀬城は落城し、米原綱寛は新山城へ逃 れた(同年三月二二日「毛利元就・輝元連署書状」(閥閲録)。

 

なお天正一五、六年(1587、88)頃の吉川広家領地付立(吉 川家文書)には「五拾貫高勢山下 うやかんは」とみえ、 当城を含む地域は吉川広家領となっていた。「雲陽誌」には古城として載せられ、高清水という。

 

頂上付近から清水が湧き出し、高清水とよばれていたのが高瀬となった と伝える。

 

頂上付近が急峻で、二の丸以外からはほとん ど登れない要害であった。

 

『島根県の地名』より引用

 

城の歴史

暦応年中(1338~41)に建部内蔵伊賀が築城したと言われる。

 

※実際には戦国時代に米原氏により改修されたと考えられる。

 

天文元年(1532):塩冶興久の乱に際し、高瀬城主米原綱広が塩冶興久を救い出そうとしたと伝わる(雲陽軍実記)

 

天文9年(1540):尼子晴久に従軍し吉田郡山城を攻めている。

 

永禄5年(1562):毛利元就の出雲侵攻にて降伏する。

 

永禄8年(1565):月山富田城攻めの時には小早川隆景軍に属して戦う。

 

永禄12年(1569):尼子氏に帰順し再興軍として高瀬城に拠った。

 

元亀元年(1570):布部山の戦いに700騎を引き連れて参加したが結果的に尼子勢は敗走、米原綱寛は高瀬城に籠城する。

 

元亀2年(1571):降伏して開城、城は吉川元春により接収、米原綱寛は逃亡。

 

 

城主家系図

米原綱寛の法名は「嶺照院前長州太守梅月宗円大居士」とある。

 

城主石高

「尼子分限帳」に拠れば、中老衆とした備中之内17500石を賜っている。

 

所感

●暦応年中(1338~41)の築城とあるが実際には戦国時代に米原氏が大規模改修を行ったと考えられる。

 

●比高も高く堅牢な山城だったことが実際に登って分かる。

 

●急峻な地形を利用した城であるが堀切などは無かった。

 

●米原氏も綱寛の父か祖父の時に近江国から尼子経久の家臣となったと思われるが、そのような経緯で家臣となったか興味がある。

 

※六角義賢と米原治綱は兄弟とあるが1世代違う、米原綱寛の活躍した時期から推測逆算して祖父の治綱は1470年頃生まれでないとおかしくなるので、六角定頼と兄弟の関係でないと辻褄が合わない。

 

●吉川元春は高瀬城にて父である毛利元就の死を知ったらしい。

 

参考URL

高瀬城(ウィキペディア)

城郭放浪記(高瀬城)

西国の山城(高瀬城

 

参考文献

「日本城郭大系14」

「島根県の地名」

「島根県地名大辞典」

「尼子盛衰人物記」

「尼子氏一門のルーツ」横山正克著

「出雲の山城」

公開日2020/01/02

 

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