城データ

城名:三沢城

別名:鴨倉城、亀嶽城

標高:419m

比高:300m

築城年:14世紀初頭の嘉元2年(1304年)頃に三沢為長によって築かれたと伝わる。

城主:三沢氏

場所:島根県仁多郡奥出雲町三沢

北緯東経:35.203487/132.962236

三沢城はここ

 

 

攻城記



麓の看板

 

いきなり立派な石垣がお出迎え。

大きな勢力を持っていた証。

野面積みであるがそこそこの巨石を使用。

大手門石垣があることから後年まで使用されていた感じが伝わる。

上方からみた大手門石垣。

十兵衛担

かなりの広さがある、出城的要素。

二の丸

二の丸の案外広い。

迷路石垣

迷路にするための石垣か?

三沢城は1つ1つの曲輪が広い。

看板

石垣で虎口のようになっている。

 

本丸城濠:大規模な加工が見られる。

比高が高く遠くまで見通せる。

 

亀岩

古井戸跡

石組みの井戸であるが潰れている。

諏訪社壇:三沢氏が先祖の国である信濃の諏訪を信奉していたのが分かる。

山城の趣がある。

三の丸

三沢池

この池も戦国時代には水の手をして利用されたと考える。

近隣の風景。

 

【菩提寺】

三沢家菩提寺:松雲山蔭涼寺

 

余湖図

 

 

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の説明板

県指定史跡 三沢城
三沢城跡は北に斐伊川、南はその支流阿井川にはさまれた標高418mの鴨倉山を中心に位置し、山陰、山陽を結ぶ要衡の地につくられている。
築城は14世紀初頭に三沢郷地頭の三沢氏によって築城されたと伝えられ、北側と東側の尾根を中心に大小30以上の曲輪が確認されている。
地元では1郭を「本丸」2郭を「鳥居ケ丸」と呼んでいるが、南端の土壇を櫓台とみて2郭を主郭(本丸)とする考えかたもある。
虎口が数カ所確認されるほか、大手門には石垣が残っている。
三沢氏は、築城後勢力を拡大し、16世紀はじめ頃には横田庄内の高鰐山に藤ケ瀬城を築き、さらに仁多郡ほか大原郡にも所領を持ち、
出雲国内最強の国人として、後に出雲を支配する尼子氏にとっても侮りがたい勢力を持ったと伝えられている。
この城跡は、土塁、堀切、桝形など中世山城の遺構をよくとどめており戦国時代の豪快な縄張りの山城として貴重である。
なお、城域内の現在地からの登り道は比較的緩で、本丸まで徒歩20分の道のりである。

 

城の概要

概 要
出雲最大の国人とされた三沢氏の居城として知られている。全山が要塞化しており、普請は十分である。

四日市方面は比較的緩やかな地形だが、西方の阿井川方面は急唆な地形となっている。山頂はほぼ同じ高さの郭が堀切を隔てて築かれている。

1郭を地元では「本丸」、2郭を「鳥居ケ九」と称しているが、2郭南端の上檀を櫓台と見るならば2郭が主郭になる。

郭2の東方には水の手とされる池を隔てて「十兵衛成」が築かれており、北側には横堀が確認できる。

虎口は随所に確認することができ、「大手口」には石垣が築かれている。尾根を削って土塁とし、防御ラインを構成する技法等から改修時期が新しいとも考えられる。四日市には「納戸垣内」、「座頭屋敷」、「成田屋敷」等の地名が残る。

 

島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用

 

 

要害山にあり、主郭を中心に 里仁多町鴨倉 主として北側と東側の尾根筋に大小一四段以上の郭をもつ多郭式の山城。

 

西と南の両側は絶壁状をなし、南側の 麓には阿井川が流れる。要害山は四周の山々に比べて低いにもかかわらず四方の要衝をほとんど望める位置にある。

 

現在わずかに石畳遺跡と濠跡が残るのみである。

 

一四世紀初頭に三沢郷地頭三沢氏が築いたという。

 

三沢氏はもと飯島氏と称し、信濃国伊那源氏で飯島(現長野県飯島町)に住し、承久の乱の功により広忠が当郷の地頭職を得た。

 

広忠の子為房の次男為長が乾元元年(1303)当郷に移り、鴨倉山に築城し三沢氏を称した。

 

同城を拠点とし、周辺に一族を配し、やがて隣接する阿井郷・布勢郷・三所郷にも支配を広げた。

 

また地頭請所として横田庄(現横田町)にも進出した。永正六年(1509)には横田庄内、高鍔山に藤ヶ瀬城を築いて移った。

 

仁多郡はもとより大原郡にも所領をもち出雲国内最強の国人として守護京極氏の代官尼子氏を抑え、のち守護職を得た尼子氏にとってもあなどりがたい勢力を保持した。

 

その後、尼子氏が横田庄に進出し代官を置いて庄園を管理したので天文~永禄年間(1532~70 )には再び当城に手を加え本城とし、尼子氏衰退後は横田お よび亀嵩の城に拠った。

 

三沢為虎が毛利輝元に属して安芸に去 ったため廃城となった。

 

城の歴史

嘉元3年(1305):この頃築城。

永正6年(1509):奥出雲町横田の藤ヶ瀬城を築城し移ったが、三沢城も機能させるため城番を置いていたものを考えられる。



城主家系図

 

初代:三沢広忠、三沢氏を称する。

 

二代目:三沢為房。

 

三代目;三沢為長(為仲)(信濃守)

 

このころ、一族を林原、堅田、鞍懸に配して農地を干拓させ、妙手として土地と農民を統括。

 

四代目:三沢為常(為家)(信濃守)香折新宮の地頭職を得て、大原に拠点を置くようになる。

 

五代目:三沢為忠(尾張守)元中8年(1391)の明徳の乱には守護山名満幸の軍に従って足利義満と対戦し、京都内野の合戦で討死。

 

六代目:三沢為清(信濃守)文明7年(1475)に京極と六角の争いに巻き込まれて、江州弓削で討死。

 

七代目:三沢為信(為在)(対馬守)尼子の代官職を勤める。

 

八代目:三沢為忠(遠江守)この頃までに郡内を領有し、横田庄は地頭請所とし、事実上の支配権を確立する。

 

九代目:三沢為国(信濃国)尼子経久により、長享2年(1488)に攻められる、その軍門に降るが天文5年(1536)に切られる。

 

十代目:三沢為幸(備前守)永正5年(1508)六角定頼と三好一党は足利義澄を立てて京都へ攻め上がってきた、この時細側陣でこれを迎え撃つ手柄を立てて、将軍義尹から感状をうける、天文8年(1539)に尼子晴久の吉田郡山城攻略時に討死。

 

十一代目:三沢為清(下野守)天文10年(1541)に大内義隆が尼子攻めをする際に大内方に誼を通じるが、大戦中に再度大内方を裏切る

天文13年(1544)尼子晴久の指示より備後・美作への侵攻を指示されるが従わずに横田庄の代官職を取り上げられる。

 

天文21年(1552)毛利元就が備後江田城を攻めた際に尼子晴久軍に従軍する。

 

永禄4年(1561)毛利元就が出雲に侵攻した際に毛利に投降する、また8月には尼子方の馬木城を攻める。

 

永禄12年(1569)毛利軍に従い、尼子軍と布部山に戦い戦功を立てる。

 

天正6年(1578)尼子勝久が立て籠もる上月城の戦いに従軍する。

 

天正9年(1581):豊臣秀吉が攻める、備中高松山城への救援に向かう。

 

天正14年(1586)没。

 

十二代目:三沢為虎(摂津守)毛利氏に従い各地を転戦したが天正17年(1589)に毛利輝元に謀られて芸州にて虜同様の身になり、更に長府藩厚狭郡に移された。

 

虜といっても石高10000石と大身の身であった為、冷遇されている訳ではない。

 

慶長5年(1600):関ヶ原の戦いで毛利氏敗れる。三沢為虎は長府藩の家老職となる。

 

城主石高

三沢摂津(為虎):10000.205石 長門国 厚狭

 

所感

●約300年間この地に勢力を伸ばしただけあり、城の造りもしっかりしている。

 

●何回も尼子氏と敵対関係になったりしているため、城の防御機能も常に改善していったものと考えられる。

 

●藤ヶ瀬城に本拠を移動したが、それでも詰めの城としての機能を有していたものと考えられる。

 

●出雲国最大の国衆としての勢力を背景に石垣も多用しており、見所のある山城。

 

参考URL

三沢城(ウィキペディア)

三沢城(城郭放浪記)

三沢氏(ウィキペディア)

武家家伝_三沢氏

 

参考文献

「仁多町誌」

「島根県の地名」

「毛利氏八箇国御時代分限帳」

公開日2020/12/24

 

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