Pexels / Pixabay
はじめに
手紙を書き返信が来たました。 NO2です。
こちらの家は現在の当主で約30代目というとっても長い家系です。
父親の取引先の方で高校生の時にはそのような方がいるんだなという認識でした。
その頃はあんまり認識が無かったのですが、よく考えたらおかしいと思いました。
なぜなら30代前=約900年~1000年前 となります。
※これは後日分かりました、初代が清和天皇となっていました。
更にこの地域の同姓を調査すると、江戸時代の地誌に以下の事が記載されていました。
「故家、先祖福礼木大夫、天安年中(※857~858)の人世々祠官也、家に天安・文明の古文書を蔵す」とあり
1200年以上歴史のある神主の家とありましたので、全く関係無いただ同姓の家くらいしか認識がありませんでした。
しかし、5~6年前に教育委員会の方と面識があり、この家の遠戚にあたる方を紹介して頂きました。
その関係で現在の神社やその裏にある立派な墓石群を拝見させて頂きました。
立派な神社(20年位前に移転したので新しいです)
その分家の当主の紹介で本家の当主の連絡先を伺い連絡したら、お会いできることになりました。
しかし、古い書物は現在どこにあるかわからないとのことで、その時はそれで終わりました。
この神社に関する書類は県立文書館に控えが残っており少しは資料がありますし、市町村史にも記載があります。
ただ、どこまで調べても名字が同じということしか分かりませんでした。
なかなか、進展のない中、この町の図書館に行き、もっと小さい範囲での市町村史が無いか確認したらありました。
『文化財第八集』という教育委員会が発行した冊子に以下の記載があり。
■■神社(式内社)の宮司●●氏は▲▲村の出で長井氏の客分として招かれ、竹の花に居をかまえていた。
とありやっと糸口を見いだしました。
この▲▲村は一族発祥の地となります。
因みにこの神社の隣にあるお寺も▲▲村の●●氏が檀那の1人として再興しています。
というのが5~6年前の出来事でしたが、今回遠戚の手紙でさらに深い関係が判明しました。
なんとこの遠戚の家系図の中に神社の宮司の家に養子に行っていることが記載されていました。
ただし、江戸時代中期のことですので、上記の事実とは年代にずれがあります。
それでも解決出来ないのが「天安年中(※857~858)の人世々祠官也」です。
ただし、これは昨年の同姓同姓のアンケートで合点のいくことがありました。
アンケート内容に以下のことが記載されていました。
●●氏に関しては、1280(弘安3)年頃本郷の大宮八幡宮の宮司一名が地頭の永井氏に招聘された。
永井(長井)氏に招聘されてきた事は共通点が見いだしました。
しかし、上記の記載にある
「長井氏の客分として招かれ、竹の花に居をかまえていた」
は戦国時代の事と思われるため同姓でも違う系統があったのではと思っています。
新しい発見でした。
系統が2つある?
1つの系統しかないと思っていましたが、同姓でも複数系統があるのではということです。
これにより先祖探しをしている時に注意すべき事がまた1つ判明しました。
稀なことかも知れませんが、全くないとも限りません。
よくよく確認したら、他のアンケートでも先祖は●●国から来たとか、前回の手紙の方の古文書にも
正中(1324~1326)からこの地にいるとありました。
これらのこともふまえて、再度この神社の本家の方に新しく分かった事をお手紙に記して送った次第です。
そして、感謝の返信がありましたので、良かったです。
この事で分かった事がありました。
①この地域(半径15キロ)に同姓であるが実は系統の違うのがある可能性が高い。
②一族発祥の地で庄屋をしていた家と宮司をしていた家。
③しかし、全く2系統が独立していたのではなく、その時々により親戚関係を結んでいたと思われる。
④手紙を書いてアンケートすることで、今まで知らなかった同姓のエピソードも判明することができた。
教訓
●同姓でも違う系統があるかも知れないので、簡単に断定をするのは危険。
●自分の家とは直接関係が繋がらなくても、アンケートから分かる事も多い。
公開日2019/09/01
更新日2021/08/01