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○今井家

先祖探しの始まりは、「今井家」からでした。

図書館で「家系図をつくる」という本を見つけたのがきっかけでした。その本で、まず戸籍を入手することを知り、1993年3月3日、バスで田舎の駅まで行き初めての戸籍請求をしました。

先祖探しのようにまとめて遡る場合は「先祖供養のため遡れるだけ遡ってください」と伝えれば楽だな、とその時分かりました。1993年7月28日(水)原付で田舎まで行き再度戸籍入手

1回目はバスで行きましたが、2回目は原付で行きました。

この日はあいにく朝から雨がしとしと降っていましたが朝の5時に家をでて5時間かけて田舎の役場に行きました。その時の情熱やわくわくした思いは忘れられません。

また、雨の中5時間かけていったという情熱が役場の方に理解されて、請求がスムーズにいったのではないかと思います。

(その時応対してくれた役場の方とはプライベートで遊ぶようになりました。)

その後「家系のしらべ方」という本を購入しました。

そして戸籍を読んで家系図を作りました。完成したとき、大きな充足感がありましたが、戸籍では遡れない部分はどうなのか気になりました。

まず、私の一番古い先祖がどこから来たのか戸籍をみました。江戸時代から田舎の村には今井常次郎はいましたが、うちの今井家の伝承では「先祖は本村からきた」ということと「屋号は南」という事は古い算術の本からわかっていました。

そこで一計を案じ、庄原市の今井すべて(10軒)に手紙を書いてみました。

すると「本村」ではなく「峰村」の今井さんから返信があり、かなり古い先祖まで記載されていました。また屋号も南でした。

私はいてもたってもいられなくなり、その方に電話をし、直接お会いしたい旨を伝えたところ快諾を頂きました。

後日JRに乗り手土産持参で会いに行きました。(1993年秋頃)

先方の話では「本当は自分の父親が長男だが、素行が悪く本家は下の弟が継ぎ父親が分家した」とのこと。

先方の方は自分の先祖や家の事を詳しく知っていて話が盛り上がりました。

それからその先方のおじいさんから本家に連絡をしてもらい本家に伺いました。

本家の当主はは「何もわからない」と言っておられましたが、話していくうちに意をくんで頂いて菩提寺にいく事になりました。

住職は過去帳をみてから「記載人物が多いのでちゃんと整理してから渡します」との事でした。

本家の方とは最後には一緒にビールを飲み、ご機嫌で「今日は泊まっていけ」とまで言ってくれました。

しかしたまたま分家のおじいさんの子供が町から来ていたので車に乗せて頂いて帰りました。

今井家の伝承「本村からきた」はおそらく情報が錯綜したものと思われます。

もともとは「峰村からきた」と伝えられていたのではないでしょうか。これは調査によって判明したことです。

常次郎は峰村で生まれて田舎の村(現在の私の本籍地)でタキノと結婚しています。

徳三郎(次男で私の曽祖父)は明治3年に生まれています。

常次郎は明治17年に亡くなっており、壬申戸籍になるので交付されません。

子供の徳三郎の戸籍(住所は現在の私の本籍地)は存在し、交付されました。

(正確には徳三郎は兄善兵衛の戸籍から分家しました。兄善兵衛が戸主の戸籍には前戸主として常次郎が記載されています。)

しかし、常次郎が峰村出生かどうか証明する資料はありません。

ちなみに壬申戸籍が仮に確認出来れば、この常次郎の生年と父親の名前が判明出来るので、残念です。

このように常次郎が峰村からやってきたかどうかは断定できませんが、屋号の一致、伝承の一致(村の名前は違っていましたが)苗字の一致から、今井家は峰村からやってきたと断定してもよいと考えています。

依頼した過去帳を手に入れたのは、それから半年後のことでした。しかも私が別件で親戚とスーパーに行った時、偶然本家の当主に会い、過去帳を催促して入手できました。

(当主自身もまだ寺からもらっていなかった。)

これらの件で色々な事が分かりました。

1 長男が後を継ぐとは限らない。常次郎が家を継がなくて、弟が継いだ、理由はわからないが事例はある。

2お寺も忙しいので即作成して頂けることは無く時間的な猶予は必要。

また、なぜ本家の当主が自分の先祖のことがわからないのかというと彼は4男で兄らは戦死しているからです。

さらに、本家の当主が成人したころには父親が亡くなっている。これが長男だったら違っていたでしょう。

さらに本家の当主から「先祖は峠を越えてきたと聞いている。昔は峠の向こうの町のあたりに住んでいたのだろう。江戸時代にはじめに峰村にきたらしい」と教えていただきました。

その2ヶ月後、峠の向こうの町を含む郡部の今井さんすべてに手紙を送付し「今井の伝承について何かご存知でしょうか?」と訊ねました。江戸時代はじめの話なので、直接の先祖につながる情報は得られないだろうな、と考えていました。

すると役場勤務の今井興二さんからお手紙を頂きました。

その今井さんのお宅では「私の家では昭和50年頃までえんどう豆を作りませんでした。理由は戦国時代に私の先祖に当たる武士が戦でえんどう豆のつるで足を引っ掛け、転倒、そこを討ち取られたため縁起が悪い作物ということで作っていません。」という伝承を教えていただきました。

嬉しくなった私は、その今井さんに電話を掛け感謝の気持ちをお伝えしました。

そのとき、さらに、2人の今井家の歴史に詳しい人を紹介してもらいました。すぐにその二人に手紙を書いてみましたが音沙汰もなくそのままです。

それから3年くらいたって、図書館で「今井五郎入道和時」という人物が居住し(1350年ころ)その地で威をはっていたらしいことは確認できました。しかし、それ以上のことは分かりませんでした。

それから10年以上たった頃友人の家系図作成に刺激を受け今井について調べてみようと思い、再度調べ始めました。

まず役場に「私は趣味で郷土史を研究しているものです、この地域に今井という武将がいたと聞き何かご存知ではないか、宜しければ何かご教示くださいませんでしょうか」とメールをおくりました。

すると役場から返信で町史があることを教えてもらい、後日、役場にいき、町史をすべてコピーさせてもらいました。

そして地域郷土歴史家の先生を紹介して頂き今井の歴史についてお尋ねしたところ、古文書を持っておられました。

その古文書というのは、福島正則が大名の時に「地域の有力者の覚書を提出しろ」というお触れがでて、

そこで家が提出した文章らしいです。家の由来書のようなものです。その中で今井は平安時代の有名な武将の子孫だということが判明しました。

鎌倉時代からの先祖が記載されている家系図もありました。ただし峰村の今井家とこの戦国武将の今井がつながらないので100%この子孫だとはいえません。

 

学んだこと

ネットで知り合った方からとてもたくさんのことを教えていただいて勉強になりました。

また、ネットというものが無限の力をもっており、即座にしらないもの同士をくっつけるものだと認識しました。

もうひとつ、友人が調べ物のついでに県立文書館で今井を調べてくれました。

そのとき、館員が町史を編纂した人物を紹介してくれました。なんでも地元の歴史に詳しく地元の歴史民俗資料館の館長をされていたとのことでした。

この人ならまた別のルートで今井の伝承について教えてもらえるのでは?と、しばらくしてから連絡をしてみましたが運悪く連絡する1ヶ月まえに脳梗塞で倒れておられました。

その後、友人に「なぜすぐに連絡しなかったのだ!」と叱られ(情報を貰った時点で倒れられていたので仕方ないのですが)人には早く聞くことが重要だということを学びました。

 


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