城データ
城名:山吹城
標高:414m
比高:230m
築城年:延慶2年(1309)
城主:大内氏,尼子氏,毛利氏、本城常光
場所:島根県大田市大森町
北緯:東経:35.103956/132.430773
攻城記
前方に見える山が山吹城になる。
大森銀山を支配していたので近隣には銀山跡(間歩)がある。
攻城開始。
山吹城は戦国時代に石見銀山を支配するために築かれた山城です。
標高高414mの要害山は独立した山で、四方とも急な斜面でかこまれる地形は軍事的にすぐれ、また銀鉱山の仙ノ山と銀山川をはさんで向い合い、銀山支配に最適な位置にあるといえます。
城は周防国(現在の山口県)の戦国大名であった大内氏によって築かれたといわれ、その後激しい銀山の争奪戦が続き、永禄5年(1562) には毛利氏が支配しました。
注戸時代になると初代銀山奉行大久保長安は休役所を奉行所として使い、山吹城を普請(城の改修)したことや、 吹屋(銀製錬所)を置いたことが記録からわかります。
その後奉行所は大森へ移転して代官所となりました。
天領時代の役所跡
中腹にも寺があった。
銀の道
銀の卸港まで続く、ここでまだ半分位。
比高が高くなり景色がよくなる。
鞆ヶ浦方面。
アップ。
やっと城域に到着。
本丸北の曲輪。
山吹城の施設は山の全体に広がり、特に山頂部には主郭を中心に堅土塁、空堀、石垣などが集中しています。
主郭は長方形で南北52m、東西32m、主郭の南北に郭(平坦地)が階段状に連続しています。
空堀は幅10mで主郭と堀との高低差が6mと深く堀には木橋がかけられていた可能性があります。
南側の斜面にある連続竪堀は19本以上あり、戦国大名尼子氏が銀山と山吹城をおさえた時に築き、北側の郭にある堅土塁は毛利氏が築いたと考えられます。
また主郭の北側の虎口には石垣を設け、周りからも城の存在が目立つようにしています。
分かりやすい。
石垣跡。
土塁跡。
大森の街並み。
本丸。
前方には高山もある。
銀山集落跡。
山吹城矢竹。
本丸南には大きな空堀があり底から本丸までの高さは6m。
堀。
本丸南の曲輪。
周辺。
更に下りていく。
矢滝城跡。
余湖図【山吹城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
大森銀山を押さえる城郭であったため、激しい争奪戦が繰り返されたようだ。
現存する遺構は外桝形、内桝形、主郭の北側と南側の郭群を結ぶバイパスの存在、櫓台と虎口の関係等、近世初頭の城郭の姿を思わせる。
また、大森の集落に面した主郭北側の郭にのみ石垣を築いたのは、ここに「見せる」ための建物を築いたためとも想像できる。
主郭南側の堀も効果的に築いてあることが実感される。
島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用
山吹城跡 現大田市大森町
大森町の西部、邇摩郡仁摩町との境にある要害山に築かれた山城で、戦国時代石見銀山をめぐる争奪戦の拠点となった。
延慶二年(一三〇九)に銀山を発見した周防の国主大内弘幸が、山吹山に城郭を築き銀山を守ったと伝える(「銀山旧記」など)。
永禄元年(一五五八)九月三日の尼子晴久書状(閥閱録)に「山吹已下之敵城悉伐捕之」とみえる。
「銀山旧記」「陰徳太平記」などによると、大内氏が銀山を支配下に置くのは大永年間(一五二一ー二八)で、その後 享禄四年(一五三こ)に川本(現川本町)の小笠原長降が銀山を 手に入れるが、天文二年(一五三三)には大内氏が奪回する。
同六年出雲の尼子経久が銀山を攻め一時期銀山を掌 握するが、同八年再び大内義隆が奪回、翌九年には尼子晴久が銀山を攻略、さらに翌一〇年には小笠原氏が銀山 を攻め支配下に置いている。
このように銀山の争奪戦は 大内氏・小笠原氏・尼子氏の間で繰広げられるが、その 後は大内氏のあと覇権を得た毛利氏と尼子氏の激しい攻防戦が始まる。
弘治二年(一五五六)吉川元春は山吹城を攻め手中に収めるが、永禄元年には尼子氏が河合郷の堂ノ原で銀山通路を遮断、山吹城を孤立させることで銀山を奪取した。
同二年毛利氏は銀山の回復に力を注ぎ、同年七月には吉川元春・小早川隆景らと兵一万四千で仙山に在陣し山吹城を攻めたが失敗した。
しかし同五年城将本 庄常光を懐柔して軍門に降らせ、銀山と山吹城を完全掌 握することとなった。
この間の具体的な攻防を知ること のできる史料は少ないが、尼子氏・毛利氏の攻防につい て「閥閲録」編纂の際に提出されたと思われる刺賀佐左衛門由緒書(閥閱録)には刺賀の城から山吹城に移った経緯や、大内氏から与えられた証文が山吹城在城中に焼失し たことなどが記されている。
山吹城の縄張りは要害山頂上部分に大規模な郭が階段 状に南北に配置され、主郭の南側には大規模な空堀がみられる。城の南斜面には合計一九本の竪堀が築かれ、北 側の郭には一部石垣が築かれている。
大手の部分は戦国 時代の休役所跡に大規模な石垣があり、大手門跡を挟んで東側にも焰硝蔵跡の石垣が存在する。
大手には下屋敷・焰硝蔵という城館に関連する地名が広い範囲で残り、 またかつて大手に存在した休谷八幡社跡・大満寺などの地名もみられる。
ほかに城下には龍昌寺と銀を納めた御文庫があったと伝えられている。
大手の南には上千京・ 下千京・千京などが、東には魚店・上市場の地名があり、城下町が形成されていたことがわかる。
大手北側に隣接 する大龍寺谷の奥には大龍寺があったといわれ、東福寺 者旧僧籍(東福寺文書)には「石州邇摩郡銀山瑞雲山大龍 寺」とある。
江戸時代になると毛利氏支配下にあった休役所は、初代奉行大久保長安の治世下でも引続き奉行所として機能した。
慶長九年(六〇四)の山吹城普請千石夫 之割(高橋家文書)によると、一千石につき三人ずつ割当て られ普請が行われた。
また同年四月一三日の大久保長安書状(吉岡家文書)には「其元五吹屋並諸間歩口屋」とある。
発掘調査により休役所の東側で精錬所(吹屋)跡が検 出されており、遺構と遺物から大久保長安支配下の吹屋 と考えられている。
『島根県の地名』より引用。
山吹城
山吹城は、ほぼ東西に流れる銀山川のすぐ北側に連なっている一連の丘陵の中でもっとも高い山吹山に築かれた山城であった。
麓の銀山道からの比高は約 二〇0mで、中腹以上は付近の峰々よりぬきんでており、それらの峰々を見下 ろす形であった。
銀山道からの上り口の一帯が唯一のゆるやかな傾斜をなしており、ここにはいまも大手口の巨大な石組の石垣が一〇mほどにわたって残っており、下屋敷・ 御文庫跡などの地名も残っている。
この一帯に、たぶん麓の居館施設があった ものと思われる。
ここから急坂を上ると、八合目あたりに明らかに砦の跡とみ られる小さな平地があり、そこから空堀を隔てて山上の塁群が続いている。
山上の塁群は、東四の段・同三の段・同二の段と段塁が三段あるが、それぞ れ段差は二~一〇mほどでいずれも急斜面をなしており、頂上の本丸に続いている。
本丸の規模は一五aほどもある平地で、地山の山頂を削平して造成され たものであろう。
山頂の塁は南東から北西に一列に長く並んで造られており、 搦手は大手の反対側の北西方向にあった。
北西方向の搦手には、本丸の下段に本丸を取り巻くように、弧状に二aほど の池の跡が現存しているが、恐らく山城の水の手、用水池であろう。
ここから 同かって、大手と同様、塁が三段続いているが、最下方の塁の 酸な斜面を十数mの竪堀が一三条も下降している。
上の本丸は、いつの時代にか整備されたものとみえ、礎石などの遺 ていないが、東二の段・同三の段の塁には石垣が一部分残っており中には平石の礎石が二、三散在している。
水口と思われるものが確認されている。 山上の塁群のみならず、銀山道に面した所々の斜面や出張った場所にも砦の 跡とみられる箇所が多く、当城は全山が要塞化されていたといえよう。
後述するように、当城をめぐって数次の攻防戦が展開され、城主も数代代わっており、 この間に数多くの修復や改築が行なわれたものと思われる。
当城は鎌倉時代末期の延慶年間、大内弘幸が銀山を発見して、その守備のた めに築城したと伝えられている。
その後、足利直冬の石見入りの際、銀山の銀 を採り尽くしてのちはしばらく銀山の存在は世に忘れられていた。
しかし戦国 時代の中期、大内義興の代となり、幕府員外の管領となるに及び中国地方の諸勢力はほとんど大内氏の幕下に従っていたが、やがて出雲国に尼子経久が興る に至ると大内氏と手を切る者が多く、山陰の地はこの両勢力の争奪の地となった。
とりわけ石見国は両勢力の接点でもあり、加えてその頃、中国大陸の採鉱法が伝えられて銀山の鉱石を精鎖して銀を採る方法が実施されるようになって からは再び銀山の価値が見直され、銀山の確保を主目的とする争奪戦がたびたびくり広げられた。
尼子氏が最初に石見国に侵攻したのは大永元年(一五二一)といわれ、大内氏 はこれに対してさらに銀山の西約四畑の地に矢滝城を築いて、山吹城ならびに 銀山の谷を俯瞰して守備の万全を期した。
ところが以前から石見国中央部の雄 であった小笠原氏が邑智郡川本町の温湯城に拠ってしだいに勢力を得、機をみ て北上して矢滝城を攻略し、銀山ならびに山吹城をも略取した。
しかし大内氏も拱手傍観してはおらず、三年後の天文二年(一五三三)には奪回して奉行を山吹城に置いた。
それから四年後の同六年、今度は出雲の尼子経久が大挙して来攻し、大内方の守将を討って山吹城を占拠した。
しかし、大内氏も二年後の同 八年には巻き返して山吹城を再び奪回して、また奉行を置いた。
ところが、先の小笠原氏は大内・尼子の二大勢力の前には手の施す術もなく雌伏していたが、天文九年に尼子晴久がその叛将毛利元就を安芸の吉田城に包囲しながら敗退するとか、翌十年には大内義隆が出雲へ報復のために侵攻したが同じく敗退するなど、大内・尼子の二大勢力が他の争いに忙殺されている間 隙を衝いて、再び銀山および山吹城を略取し大内方の守将を自尽させた。
このように再三にわたって山吹城の略取がくり返されたのは、いうまでもなく銀山の産銀の利を得ようとするためであった。
しかし、その後小笠原は尼子氏に味方し、尼子氏も小笠原氏の銀山領有を許したが、ついで天文年間の後期になると、尼子氏は部将の岩山城主高畑源四郎を山吹城の守将に任じている。
天文二十年の大内義隆の没落以来、毛利元就が台頭してくるが、やがて毛利氏は大内氏に代わって石見国経略に手を染め、弘治二年(一五五六)、吉川元春を 石見に進出させ、その時、山吹城の尼子方の守将は吉川氏に降った。
山吹城と 銀山が毛利氏の手中に落ちたことを知って尼子晴久は永禄元年(一五五八)、大 挙して来攻し、銀山奪回をはかるため山吹城から約13㎞東の大田に陣を布き、 邑智郡から北上する毛利軍と、山吹城の南約八㎞の忍原にあって大遭遇戦を展 開したが、毛利軍は大敗した。世にこれを「新原崩れ」というが、ここにおいて毛利方の山吹城は孤立してしまい、守将は降伏し、部下の将兵に代わって割腹して果てた。
こうして山吹城は、また尼子氏の手に戻った。 ついで、捲土重来を期した毛利元就は、永禄三年みずから一万五千余を率い て山吹城の対岸約一・五㎞の地に位置する仙山に向城を築いて山吹城に猛攻を加えた。
しかし城は険難で、守将は尼子氏の名将の本城常光が二千余の城兵と よく防戦したので、急には落としがたいと知った元就は早々に囲みを解いて安芸に引き返した。
その後、元就は謀略をもって本城常光の誘降に成功し、 その後は再び尼子氏も回復することができず、山吹城は毛利氏の領有するとこ ろとなり、毛利氏の守将が置かれた。
やがて慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の戦ののち石見国一円は徳川氏の領有となり、銀山周辺一帯が幕府の直轄地天領となるにおよんで山吹城も廃城となったのである。
『日本城郭大系』14より引用。
城の歴史
延慶2年(1309):銀山を発見した大内弘幸が築城したという。
享禄元年(1528):このころ大内氏が支配していたと考えられる。
享禄3年(1530):石見の国人領主・小笠原長隆が銀山を奪う。
天文2年(1533):大内氏が奪回した。大内氏は山吹城を強化して石見銀山防衛の拠点とした。
天文6年(1537):出雲国の戦国大名尼子経久が石見国に侵攻し、銀山を占領した。
天文8年(1539):大内氏が奪還再度。
天文10年(1541):再度尼子氏が石見小笠原氏を利用して銀山を占領、大内氏と尼子氏による争奪戦が続く。
天文20年(1551):大内義隆が陶隆房(陶晴賢)の謀反で自害すると(大寧寺の変)、厳島の戦い、防長経略の後に大内領を併呑した、毛利元就が尼子氏との間で銀山争奪戦を繰り広げた。
弘治2年(1556):毛利氏が大内領に侵攻している状況の中、尼子晴久は石見国へ侵攻、山吹城主刺賀長信を自害させ、石見銀山を所領とした(忍原崩れ)。
永禄2年(1559):毛利軍が侵攻するも、降露坂の戦いにて撃退する。
永禄3年(1560):毛利元就が城主であった本城常光を降伏させ奪い返す。
永禄5年(1562):毛利元就は本城常光を暗殺して、石見銀山と山吹城を完全に手中に収めた。城には吉川元春の家臣・森脇市郎左衛門が置かれた。その後、毛利氏の勢力拡大によって、石見国全体は平穏な時期を迎えた。
慶長5年(1600):関ヶ原の戦いの後、石見銀山は天領となり、大久保長安が山吹城に入った。山吹城を改修した長安であったが、翌年大森代官所に拠点を移し、山吹城は実質的に廃城となった。
ウッキペディア一部引用。
所感
●現在のような広大な形になるのは大内氏が守っていた1530年代、尼子氏が守っていた1550年代、毛利氏が守っていた1560年代になると思う。
●山頂までの道も整備されており30分ほどであがれる。
●山頂はきれいに整備されているが連続竪堀は藪化していた為分からなかった。
●さすが世界遺産、銀山も一緒に見学したほうが良い。
関連URL
山吹城主であった本城常光の元の城。
参考URL
石見の城(山吹城)
参考文献
『島根県中近世城館跡分布調査報告書』
『島根県の地名』
『日本城郭大系』14
『石見の山城』
公開日2021/08/14