城データ
城名:黒崎城
別名:道伯山城
標高:63m
比高:60m
築城年:1600年頃築城開始 1615年一国一城令により廃城
城主:井上周防守之房
場所:福岡県北九州市黒崎
北緯:東経:33.870379/130.773665
攻城記
麓から攻城開始
石垣が僅かに残っている
山頂(本丸部分)
石があるが当時ここにあったのではなさそう
土塁っぽい
矢竹もある
黒崎城からの朝焼け(東方面)
西方面
当時の雰囲気が分かる
ここら辺の石垣が一番多く残っている
曲輪跡
段差が分かる
北方面
位置関係
全国Q地図より【黒崎城】
余湖図【黒崎城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
航空写真
戦後すぐの航空写真
山頂が畑になっていることが分かる
海岸線
城の西に関しては1700年代に干拓されておりそれまでは海であった
筑前国郡絵図 [遠賀郡](一部抜粋)
城の概要
【沿革】
洞海湾南岸に聳える道伯山山頂に位置する。
黒田長政が関ヶ原合戦の後に筑前に入部した際、 築かせた出城 「筑前六端城」 の一つである。
御牧 (遠賀) 郡奉行にして重臣の井上之房が 17,000 石の高禄にて封ぜられるが、他の端城同様、元和の 一国一城令にて廃城となる。
廃城後は、 城の南側が、 長崎街道の黒崎宿として発展を見せる。
【概要】
標高62mの道伯山は現在、山頂部に大きな貯水槽が建設されており、 建設の際に山頂周辺の遺構は ほとんど壊されてしまっており、詳細な状況はほとんどわからない。
しかし、 江 戸時代の絵図を見ると、 およその状況を知ることがで きる。
山頂部に方形の主郭 (本丸) を置き、その北側と西側に土塁と石垣を巡らせる。
北側には、 内枡形と思われる虎口を構え、 下段へと続いている。
本丸の 周囲は帯曲輪が巡っているが、特に東側と北側は広く なっており、いわゆる二の丸と呼べる曲輪となっている。
そして、その北側に南北に細長い曲輪 (三の丸) を築いている。 本丸の一部を除いては、 破城の影響か、 石垣などの表記は認められない。
前述のように、 貯水槽建設により、現状ではほとんど遺構が残されていないと考えられていた黒崎城ではあるが、 近年北九州市が確認調査を行い、その実態が徐々に明らかとなってきている。
本丸部分についてはほとんど残存していないが、 その周囲の二の丸や三の丸の縁辺部では石垣が残存している。
ほとんどは玄武岩質の石材を用いて積んでいる。 道伯山内には矢穴痕跡の残る石材(た だし石垣中の玄武岩には矢穴は見られない)があり、 城内で石材を調達していたものとみられる。
また、 本丸跡に方形 の花崗岩石材が数点確認でき、 石垣の隅角部分専用の石材として利用 された可能性も考えられる。
他に瓦などが出土しており、 瓦葺き 建物が想定される。
また、 絵図には山の北側の岬には 「御舟入」 と横矢がかかった石垣で護岸された箇所 (矢倉台) があるが、 現在は埋め立てられてしまい、よくわからなくなっている。
しかし、 大 正時代の地形図を見ると、江戸時代と類似する形態で石垣の表記があり、大正時代頃までは残されていた可能性が高い。
しかし、この遺構が 六端城の当時まで遡るかどうかは 今後の検討課題である。
『福岡県の中近世城館跡Ⅱ』より引用
城の歴史
1604年:関ケ原の戦いの後黒田家が入封、家臣の井上之房に黒崎城を築かせる
1615年:一国一城令により廃城
城主(一族)石高
井上之房が17,000石にて在城する
所感
●関ケ原以降の城のため当時は立派な城があったと思われる
●当時は海に突き出した岬にある城であった
●山頂部分には遺構は無かったが、周辺部に石垣や曲輪跡があり細かく見て行けば興味深い
関連URL
参考URL
参考文献
『福岡県の中近世城館跡Ⅱ』
『日本城郭大系』18
北九州市市史
公開日2025/09/27