城データ

城名:沼城

別名:遠得山城、要害山、須々万城

標高:357m

比高:19m

築城年:不明

城主:江良賢宣、山崎興盛

場所:山口県周南市大字須々万奥

北緯:東経:34.123869/131.865671

沼城はここ

 

攻城記

保福寺の裏山辺りが沼城であった

当時はこの田んぼが全て沼地であったと推測される

 

当時のイメージ画像

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全国Q地図より【沼城】

当時の雰囲気が伝ってくる

 

城の概要

錦川支流の須々万川流域に展開する須々万盆地北部の独立丘陵上に位置する。

須々万は内陸交通の 要地で、南は徳山や富田方面、西は徳地や鹿野方面、東は岩国や錦方面へ通じている。

現在は、丘陵上にケアハウスや寺院、 住宅等が建設され、 城郭遺構は残っていないため、城域は不明である

 沼城の呼称は、かつて三方が沼であったことに由来するといわれており、 現在は水田となっている。

平地との比高差が小さいことから、周辺湿地を防御に有効利用したものと考えられる。

文献によれば、毛利軍が厳島戦で陶氏に勝利後、周防に進攻した際、本城は山崎伊豆守興盛を中心に大内軍は弘治2年(1556)4月、9月の2度にわたり、毛利軍を退けた。

しかし、 弘治3年(1557)元就が率いる大軍の総攻撃を受けて、落城したと記されて いる

『閥閲』 2巻 61 『閥閲録遺漏』 巻5の1)。

 

『山口県中世城館遺跡総合調査報告書-周防国編-』より引用

 

「沼城址」
毛利元就の防長制圧において、最大の激戦となったところが、ここ沼城の戦いです。
天文二十四年(一五五五年)十月一日、安芸の厳島の戦いにおいて陶晴賢を破った元就は、破竹の勢いで周防の国に入り、岩国の永興寺を本陣として防長二州の制圧に取りかかりました。
弘治二年(一五五六年)四月十九日、元就の嫡子隆元は、兵約五十騎を率いて岩国を出発し、翌二十日須々万に到着、沼城攻撃を開始しました。
しかし、沼城に集結した大内陣営の勢力は、毛利方の予想をはるかに上回るものがあり、その上、城は三方を沼沢に囲まれた要塞堅固な城塞であったため、退去を余儀なくされました。
その後、九月二十二日に再び、隆元が大軍を率いて来攻しましたが、 沼に悩まされて進めず、両軍の全面衝突には至りませんでした。
このため、翌弘治三年(一五五七年)二月二十七日、元就自らが総大将 となり、将兵一万余騎を率いて岩国を出発し、翌々二十九日から総攻 撃に取りかかりました。総攻撃にあたっては、沼に編み竹を投げ入れ、 この上に筵を敷いて押し渡り、城中に攻め入ったため、城内は大混乱となりました。
城主山崎伊豆守興盛は陣頭指揮で必死に抵抗をしましたが、やがて力尽き、江良弾正忠賢宣は城を出て降参し、伊豆守父子は自刃し、三月三日落城いたしました。この戦いで籠城していた男女千五百人余は討たれたとも言われています。
なお、須々万地区には、沼城の戦いを物語る哀話として「沼を渉る女」 の伝説があります。
恋ふは沼の彼方よ濡れぬれて
わたるわれをばとかめ給ふな
これは、新婚間もなく離別を余儀なくされた、伊豆守の息子右京進隆次の妻が、夫を慕う姿を伝えたものです。
周南市都濃観光協会」

 

看板より

 

 

城の歴史

弘治2年4月、9月:毛利隆元軍と戦い撃退

弘治3年:毛利元就軍と戦い落城

 

萩藩閥閲録

巻2の61

遺漏巻5の1

 

所感

●日没時の雨に行ったため寺周辺しか散策できなかったが、沼城で寺の眼前に広がる田んぼでイメージ出来た

●裏に沼城の墓があったので途中まで行くがあまりにも真っ暗で引き返した

●三方向を沼で囲われていたとあるが、確かにこれでは毛利軍も攻略難しいかったと思われる

 

関連URL

 

参考URL

須々万沼城(ウッキペディア)

城郭放浪記(須々沼城)

沼城跡(山口県周南市須々万奥)

 

参考文献

『日本城郭大系』14

『山口県中世城館遺跡総合調査報告書-周防国編-』

『山口県の地名』

『萩藩閥閲録』

 

 

公開日2025/09/07

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