城データ
城名:徳山藩館邸跡
別名:徳山城
標高:36m
比高:0m
築城年:慶安元年(1648)毛利隆就によって築かれる
城主:毛利氏
場所:山口県周南市徳山(周南市文化会館)
北緯:東経:34.061544/131.813328
攻城記
現在は周南市文化会館になっている
土塁にも見える
庭園当時のものかは不明
位置関係
城の概要
萩藩の支藩徳山毛利氏の城である。藩祖毛利就隆は、毛利輝元の次子として慶長七年(一六〇二)に伏見に生まれた。
その十六歳の元和三年(一六一七) 宗藩から都濃郡を主として三万石あまりの地を分与されて徳山藩が創立され、ついで寛永十一年(一六三四)に、禄高四万五千石をもって、幕府の公認をうけた。
初め就隆は藩の本拠を下松に置こうとして、下松の東隣河内村に館邸を設けたが、ここは山陽街道から隔たり、かつ領内諸村との連絡にも不便であったの で、領内の適地を物色し、海陸四通八達の野上村を見立てた。
正保二年(一六 四五)、宗藩に協議してその同意を得て、慶安元年に至って幕府の認可をうけ た。
館邸の建築がただちに企てられ、邸地は街道と海浜を南方に望む金剛山の麓、高燥な台地の上に決定された。
同年十一月十九日に鍬始めを行なって整地し、やがて建築に着手し、翌二年秋に至って竣工した。
越えて三年、江戸から帰国した就隆は六月十日に初めて新館に入った。以来、明治維新に至るまで、 徳山毛利氏の本拠となった。
従来の野上村は今や一藩の治府となって面目を一新することになったので、 改めて徳山と称することとし、 慶安三年九月二十八日に幕府の認可をうけた。
徳山の館邸は城の構えではない。したがって堀や水堀はめぐらさず「御館」と いった。
もともと大名には格式があって、禄高その他によって国主・城主・陣 屋などの別があった。
徳山藩は国持ちや城持ちの大名ではないので、城と公称 するわけにはいかなかったが、幕末の天保七年(一八三六)に至って、宗藩の斡旋により幕府から城主格を認可された。
これから初めて館邸を「御城」と呼び、 城山を御城山と呼ぶようになったのである。
館邸は戦災で焼失し、戦後その屋敷跡は毛利球場として親しまれていたが、 のちに野球場が周南緑地公園に新設され、跡地にモウリプラザができ、現在は 動物園・展示館となっている。
『日本城郭大系』13より引用
城の歴史
慶安元年(1648):毛利隆就によって築かれる
天保7年(1838):幕府から城主格を許可される
城主家系図
城主(一族)石高
毛利就隆が、1617年(元和3年)に3万石を分与される
所感
●現在なにも残っていないが土塁が当時を偲ばせる。
●空襲で灰燼に帰しているがもし空襲が無かったら歴史的文化財として徳山の宝となっていただろう。
●毛利隆就の母親である周姫は杉元宣に最初嫁いでいたが、その屋敷がこの徳山藩邸の敷地内にある。
関連URL
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『萩藩諸家系譜』
『萩藩閥閲録』
公開日2025/08/17