城データ

城名:櫛崎城

別名:雄山城,長府城,串崎城

標高:20m

比高:20m

築城年:940年に藤原純友の配下稲村平六景家が在城との伝承あり

城主:内藤隆春、勝間田土佐守盛長(城代) 毛利氏

場所:山口県下関市長府外浦町

北緯:東経:33.988977/130.994159

櫛崎城はここ

攻城記

駐車場から登っていく

これは当時の石垣か

数分で到着

近世城郭は迫力が違う

矢穴

 

本丸部分

礎石か

関門海峡と関門橋が見える

美しい石垣

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全国Q地図より【櫛崎城】5mメッシュ

 

 

余湖図【櫛崎城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

串崎城跡

串崎城は長府藩祖の毛利秀元が築城した近世城郭で、雄山城と称していました。

 

長門国一国と周防国の一部などを領有していた秀元は関ヶ原の役ののち、毛利氏の防長二ヶ国への減転封に伴い、長門国西端の豊浦郡一帯を分知されました。

 

慶長7年(1602)に長府に入部した秀元は長府串崎を城地に選定しました。 串崎は海に突出した半島状の地形で、北、東、南の三方を海と断崖が取り巻く要害となっていました。

 

室町時代、大内氏の家臣である内藤氏がこの地に城を築き、配下の勝間田氏が城主となって長府の町を警固しており、秀元はこの旧城部分を主郭として継承し、近世城郭として整備拡大して いったものと推測されます。

 

作事奉行は秀元の家将となっていた細川元通の家臣である秋田清長が務めました。秋田氏は功山寺の再興なども行っており、長府藩草創期の主要な普請を手がけています。

 

城地の西方から壇具川までに位置する御舟手、外浦、侍町、関峠などは「郭内」とされ、大身の家臣などが家宅を構えていました。

 

天守については、これを示唆する記録があり、また、天守台の発掘調査により建物の礎石なども確認されていることから、未完、完成は別として、その存在を証することができます。

 

この城は、元和元年(1615)の一国一城令により破却され廃城となりましたが、軍事的な要地であったことから、幕末には関見台台場と城山台場の二つの砲台が慕造されて攘夷に備えました。

 

しかしながら、元治元年(1864)の下関戦争で真っ先に砲撃を受け、またたく間に破壊されています。

 

なお、秀元は廃城後、三の丸に相当する位置(豊浦高校の敷地一帯)に館を構えて居所と藩庁とし、長府藩の領国経営を行いました。

 

この天守台の石垣は、城下町長府のシンボルとして整備を行ったものです。

 

看板より引用

 

櫛崎城

櫛崎は一つに串崎とも書く。 長府の南端にあって、周防灘に向かって突き出した半島である。

 

東・南の二面は数十mの断崖絶壁で、すそを波浪に洗わせ、 北西の二面は堅固に人工を加えて人を近づけず、まことに要害の地である。

 

南方の丘を雄山といい、櫛崎城はここにあり、串崎城または雄山城ともいわれる。西の側正面に正門の跡があり、このあたりから南の方へ延々数百mにわたって巨石・巨岩をもって積み重ねた城礎の石垣がいまなお残存している。

 

『豊府誌略』によると、櫛崎城について、「雄山城跡御館の東南にあり、此山には昔日大内の侍内藤隆春在城す、 櫛崎八幡社山にある故櫛崎とも云へり、慶長七年宰相秀元公打入の時再築して居城とし給へり、同十一年一国一城の御改の時此城も停止せらる、今猶石礎山上山下処々に残り、東南は数十丈の岸高く、 羊腸たる岩路青苔露滑にして岸下の石磯白浪常に雪を捲き、南は赤間津迫門口にして、挙国の客船昼夜となく風帆舳艫相連り、豊陽の遠山眺望を慰す、西は陸地、北は海岸、東は干満二島の 景長く神代の妙を表す」

 

と記している。脚下に関門海峡を脾睨し、はるかに豊陽の山々を一瞬のうちに収める風光は絶景で、同時に要害至極の地というべきである。櫛崎城の創築の時代は明らかでない。

 

『長門国志』に「天慶三年七月、稲村平六景家、長府城に在城」とあるが、伝説の域を出ない。

 

ただし、稲村平六は当時西瀬戸内海に勢力を振るった海賊の大将藤原純友の手下と伝えられ、海峡の出入口を扼する要衝である串崎の地が海賊衆の根拠地となっていたことは想像される。

 

建武三年 (延元元、一三三六)四月、九州に走った足利尊氏・直義は諸軍を率いて大宰府を発して東上の途につき、長府に至ってしばらく逗留し、船航を徴した。『梅松論』に次のように見えている。

 

「建武三年四月三日、大宰府を立て御発程に大友・少弐並に九州の輩、博多の津よりを解て、両将は長門の府中にしばらく御逗留にて当所より御出船あり、御船の事は元暦のむかし九郎大夫 判官義経壇の浦の戦に乗たりし当国串崎の船頭の子孫の船なり、義経平家追討 の後、此舟においては日本国中の津泊において公役あるべからずと自筆の御下 文を今に帯す、今度此船を以て御座船に定められけるは最嘉例に相叶へり、是長門の守護厚東武実申沙汰する所なり」、いわゆる櫛崎船の活躍の歴史は古い。

 

「温故私記』に「永禄十二年九月中旬、内藤左衛門尉隆春の臣勝間田土佐守盛長長府串崎城に隆春より籠置れける処に云々」とある。

 

内藤肥後守盛貞(永享十年四月十五日死、 八十一歳)が初めて大内氏に属し、大内盛見の時、長門守護代となって以来ほとんど職を世襲した。

 

従って内藤氏によって築城せられた可能性が最も強い。 内藤隆春は下野守興盛の季子で、大内義長と行をともにし、 勝山城で自刃した隆世の叔父にあたる。その姉が毛利隆元に嫁していたので、 つねに毛利氏とは懇親を通じ、大内義隆滅亡後はその所領長門国吉部(いまの厚狭郡楠町)の荒滝城に居り、あえて大内義長に力を貸さなかった。

 

そこで毛利元就は義長・隆世を撃つにあたり、隆春に内藤氏の宗家を嗣がせた。そして大内氏滅亡後、隆春は元就から長門守護を安堵せられた。

 

勝間田氏は内藤氏の一族で、内藤氏が長門守護代のときは小守護代を勤めた家筋である。土佐守盛長も隆春の部将として功があり、その守護代として櫛崎城番を命ぜられたと思われる。

 

関ヶ原合戦の後、慶長七年(一六〇二)、毛利秀元が豊浦郡三万六千二百石に 封ぜられ、長府に入部し、櫛崎城を修築して入城し、雄山城といった。

 

元和元 年(一六一五)、徳川氏の一国一城の制により城郭を破却し、山麓に居館した。

 

現豊浦高等学校の校地である。城跡の北方の丘に豊功神社がある。はじめ雄山の谷にあって串崎八幡といったが、慶長七年、秀元の入部のとき、居城修築のため北方の丘に移し、毛利氏の累世の軍神宮崎八幡を勧請して中殿とし、左殿串崎八幡、右殿を高良大明神と崇敬し、このとき宮崎八幡と改称、二代光広 のとき社名を松崎八幡宮と改めた。

 

明治時代に入って藩祖秀元をあわせ祀り、 社名を豊功神社と改めたのである。

 

『日本城郭大系』13より引用

 

城の歴史

天慶3年(940):藤原純友の配下稲村平六景家が在城(伝承)

永禄12年(1569):内藤隆春の家臣である勝間田盛道が城代として在番する。

慶長7年(1602):毛利秀元がこの地に入城して大々的に改修する。

元和元年(1615):一国一城令で廃城となる。

元治元年(1864):勝山御殿を築いて居城を移動する。

 

 

城主家系図

城主(一族)石高

内藤隆春

2631.006石 周防 佐波

 

毛利秀元

36,200石

 

所感

●圧巻の石垣と本丸から見た景色がとても良い。

●豊功神社まで城域とのことで長大な城として当時は目だっていたと思う。

●10年そこらで廃城になったのは残念。

 

関連URL

 

参考URL

城郭放浪記(櫛崎城)

勝間田盛道(ウッキペディア)

 

参考文献

『日本城郭大系』13

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』巻96

 

公開日2025/08/17

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