城データ
城名:長山城
別名:亀山城、平蓮寺山城
標高:68m
比高:38m
築城年:不明
城主:三浦(仁保)元忠が城番を命じられる、毛利秀元が本格的な城館として築く
場所:山口県山口市亀山町
北緯:東経:34.180761/131.473279
攻城記
現在は公園になっており当時の遺構はない
戦前は銅像が沢山あったみたい
庭園もある
前方の山が高嶺城跡になる
瑠璃光寺もみえる
標高も68mあり周囲を一望できる
位置関係
全国Q地図より【長山城】5mメッシュ
余湖図【長山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
亀山は古くから長山と呼ばれ、 戦国時代末期には山と山廻りの堀内を城地とする長山城が築かれた。
その後、関ヶ原合戦直前の慶長4年(1599)、 毛利輝元の従弟・毛利秀元がここに築城をはじめたが、合戦の敗北で長府に移ったため、 城は未完成であった。
時は流れて明治22年(1889)、 忠正公(毛利敬親)御由緒会が、 明治維新における長州藩の功績顕彰のため銅像建立を発起し(総裁山田顕義、顧問井上馨、 後の総裁伊藤博文)、当時としては珍しい西洋式銅像の建立プロジェクトがはじまる。
当初は敬親公の銅像一基のみを建立する計画であったが、 敬親公のかつての居館や墓所に近く、 山口のまちを見渡せる亀山の山頂を山口県の形に見立て、 敬親公の銅像を中心に、 旧藩領の所在地に該当する場所に四支藩主の像をあわせて建立することとなった。
明治25年(1892) 11月に起工し、 明治33年(1900) 4月に除幕式が執り行われ、一大銅像公園として開園した。
銅像の建設資金は、 防長の有志者10万人余の寄付などで調達されたという。 なお、銅像建設の最中に亡くなった毛利元徳公の銅像も建立することとなり、 明治39年(1906) 10月に除幕式が執り行われた。
ちなみに銅像の制作は、日本の洋風塑像の創始者 ・ 長沼守敬があたった。
ところが、第二次世界大戦下の昭和19年(1944)、 これらの銅像は兵器の材料として供出され、 跡には台座が残されるだけとなった。
その後、昭和55年(1980) に、 山口市制施行50周年を記念して、 毛利敬親公の新たな銅像を造立し、今日に至っている。
この度、 明治維新150年を記念して、山頂広場を再整備するにあたり、 かつてこの地に幕末から明治へと 日本が変わる原動力を生み出した長州の誇りと、旧本藩支藩の団結を象徴する6体の銅像が建ち、 多くの市民の憩いの場となっていた歴史をここに再び顕彰する。
看板より
概要
長山城は、山口盆地の北部にそびえる古城ヶ岳山麓で、一ノ坂川と五十鈴川に挟まれた北側から南西側に傾斜する扇状地の中にある独立低丘陵を中心とした地区に立地する。
南北約 360m、東西約 210mの規模の丘陵部に広がる城域は、現在、亀山公園となっている北峰 (現在標高 68.2m) とサビエル教会が建つ南峰(現在標高 53.0 m)及び教会の駐車場となっている鞍部の平坦地(現在標高 46.9m)から構成されている。
公園化等による後世の改変が加えられているため、元来の明確な城郭遺構を確認することは難しい。
長山城については、山口市仁保の源久寺に伝わる 『源久寺記』の中で、 三浦 (仁保) 元忠が毛利輝元から亀山(長山)城番を命じられたことが、次のとおり記されている。
「當寺旧記云、毛利輝元公之尊命にて、三浦兵庫頭事山口亀山の城番致せとの仰に仍て、仁保より通てつとめ申され候、 自然に彼地逗留久しくついに定居に仰せられき、よって亀山在番致され候ぬ」(『注進案』山口宰判仁保庄下郷)
しかし、城番の時期が示されていないため、 三浦元忠が城番を命じられる以前には築城されていたとは考えられるが、その時期は明らかではない。
中世の長山城は、大内時代の山口を描いたとされる『山口古図』(慶長以降の江戸時代の成立とさ れる複製図)では、城郭に関して、 静間山の最高所に「物見台」とあり、東麓には長山殿とする居館 がある。
戦国後期の長山城は櫓程度のものであったと推定される。
長府毛利家の年譜である『毛利家集』 巻5や『注進案』山口宰判上宇野令之九によると、 その後、 本格的な城館として長山城を築いたのは毛利秀元である。
秀元は、元就の四男である穂田元清の次男 で毛利輝元の養子となり本家を継いだ。
豊臣秀吉の遺命を受けて長門国と周防国吉敷郡ほか数地を分封された秀元は、山口開府と長山城築城に着手した。
築城は、慶長4年(1599) 6月に始まり、翌 5年(1600)の関ヶ原の戦い後、 慶長5年10月の毛利氏の防長2国への削封までの1年数か月の 短期間で、未完成であったともいわれる。
秀元は同11月に領地を与えられて長府に移った。
この長山城の縄張りについては、 絵図・ 古写真や現地遺構等を参照しつつ考証した桑原邦彦氏による論考がある(桑原2003)。
この中でも取り上げられている 『山口亀山并山麓絵図』や『静間山廻 田畠図面』などの廃絶後の長山城を描いた近世の絵図によると、城郭の配置は次のように推定される。
全体構造は、盆地内の独立した丘陵である長山全域に曲輪を設け、 周辺の低地には山の周辺全体を取 り巻く堀を築いた配置となっていた。
堀の内側には城主の居館などの重要施設を置く空間が確保され ていた。
天正年間の中世的な山城とは異なり、近世初期の平山城につながる縄張り構造が窺われる。
山稜部の長山全域には、3箇所に郭が設けられていた。 静間山の山頂(現亀山公園)には、西北から東南方向に主軸を取る不整楕円形の主郭が設けられ、 南斜面に二つの小さな曲輪が設置された。
平蓮寺山山頂(現サビエル記念聖堂周辺)の郭は、やや不整な隅丸方形を呈し、静間山と平蓮寺山の鞍部には、 長方形に近い郭があった。
堀に関しては、『寺社由来』の覚書に、「今以堀形有之、其外当山内ニ屋敷形数多石垣等御座候」の 一文があり、廃城後に堀の形跡が残っていたことが窺われる。
近世毛利家資料の絵図や明治・大正期 の地形図・写真と現存地形を照合して、 周囲を取り巻く総堀の存在を想定した長山城の復元縄張図 が桑原氏によって、一説として示されている(桑原 2003)。
虎口については、詳細は不明であるが、 東側に平虎口の大手門、西側に搦手門があったと推定されている。
これら想定復元については、さらなる検証による城郭構造の解明が必要であろう。
長山城は、関ヶ原の戦い後の慶長5年10月、毛利輝元の防長二国への削封に伴い、秀元が長門国長府に移ることになり、実質的に廃城に至ることになった。
毛利秀元が山口に城を構えたのは、大内氏の本拠地であった政治・経済的重要性や交通の利便性とともに、 弘治年間以来、堅固な高嶺城が所在したことが考慮されたと考えられる。
高嶺城が険しい山の峰に築かれた典型的な山城で、市街地とは離れた中世城郭としての性格を持つのに対して、長山城は市街地内の低丘陵に立地し、市街地と一 体化を意識した選地を行っている点で近世の平山城につながる一面を窺わせるといえよう。
『山口県中世城館遺跡総合調査報告書-周防国編-』より引用
城の歴史
天正16年(1588):三浦 (仁保) 元忠が毛利輝元から長山城の城番を命じられる。
慶長4年(1599):6月より毛利秀元が築城開始。
慶長5年(1600):10月毛利氏の防長2か国へ削封より未完で終わる。
所感
●遺構と呼ばれるものは何もないが山頂から見渡すと周囲が見わたさせる。
●平山城であり、ここに本格的な城が築かれたら相当な城だったと思われる。
●平時は長山城で戦時は高嶺城にて応戦することを想定していたか。
関連URL
参考URL
参考文献
『山口県中世城館遺跡総合調査報告書-周防国編-』
『日本城郭大系』13
公開日2025/08/10