城データ
城名:中山城
別名:無し
標高:48m
比高:41m
築城年:不明
城主:渡辺氏
場所:広島県福山市草戸町中山
北緯:東経:34.470995/133.353178
攻城記
中山城全景。
山の中に入っていく。
三十番神社というものがあるらしい。
右神社、左城跡。
元に戻り左に進む。
入口があり分かりやすい。
山頂まで楽々進める。
本丸に到着。
なにやら工事をしている。
曲輪状の区画。
南の曲輪に進む。
細長い曲輪。
麓を臨む。
位置関係
open-hinataより【城】
余湖図【中山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
主郭を置き,南北に郭を配している。また南東下には幅8mの堀切を設け,その外側も郭としている。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
草戸村
当地の中山城も草戸千軒と関係があると思われる。
同城は芦田川西岸に位置する山城で、山田の一乗山城を築城する以前の渡辺氏一族の居城と考えられる。
芦田川に沿って北西から延びる低丘陵の先端を空堀 で区切って城郭としたもので、頂部に本丸、その周囲に帯郭・小郭を配置する。
同じく渡辺氏一族の居城であっ たかとり た鷹取城跡もある。
『広島県の地名』より一部抜粋。
中山城
中山城は、かつては福山湾に面していた芦田川西岸の低丘陵上に位置する山城で、沼隈半島の山田荘を治めた渡辺氏の一族が居城したといわれている。
しかしその詳細については、時期も城主名も不明な部分が多い。
ただ、城の東北眼下には、河床に埋もれた中世の町として知られる草戸千軒遺跡があり、位置的にも年代的にも、それとの関係が考えられよう。
草戸千軒遺跡は、福山湾西岸の低地に広がる中世の集落跡で、これまでの二十七次にわたる調査によって、鎌倉時代以降、南北朝・室町・戦国・安土桃山時代を経て江戸時代初期に滅亡したこと、またその最盛期は室町時代 桃山時代にかけてで、その頃には堀や柵で囲まれた町並があったことも確かめられている。
この集落については、それが位置的に明王院(当時の常福寺)の前面に広がっていることから、かつては常福寺の門前町であったか、あるいは、その西側の長井氏の長和荘の年貢積出港であったかなどの性格づけがなされている。
それらの最盛時は鎌倉時代から南北朝時代であるのに対し、草戸千軒の最盛期はむしろそれ以後の室町時代から安土桃山時代にかけての頃であるころから、長井氏より後の毛利氏のもとで勢力をもってきた山田荘の渡辺氏を考えたほうがよいと思われる。
この城の遺構は、芦田川に沿って北西から延びる低丘陵の先端を区切って城郭としたもので、頂部に本丸、その周囲に帯郭・小郭を配置しただけの小規模なもので、領地経営と防備とを重視したいわゆる山城的なものでははない。
ただ本丸からの展望は開けており、かつては広く福山湾一 すことができたものと考えられる。
『日本城郭大系』13より引用。
城の歴史
詳細は不明であるが室町時代に初期の渡辺氏により築城されたのではないかと思われる。
室町時代の応永年間(1394~1428)に渡辺氏初代である高が草戸に来ているので、この渡辺氏の初期城の可能性がある。
この城での戦などは記録にでてこないが、草戸千軒の発展とともに国衆として成長していったものと思われる。
城主家系図
城主(一族)石高
渡辺高の初め頃に長和寺家分五〇貫の代官となる。
※代官なので自分の所領ではない。
所感
●城としては2郭程度の城で防禦というよりは、草戸千軒を管理するような城だったのかもしれない。
●行った時には発掘工事をしており、何か出てくるか楽しみ。
●城主渡辺氏は紆余曲折がありながらも最終的には毛利家臣となる。
関連URL
城主名倉氏は渡辺氏に従っていた。
近隣の城。
戦国時代に渡辺氏と小競り合いがあった城。
参考URL
草戸中山城と渡邊氏 (福山市草戸町)
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/05/04