城データ

城名:枝広城

別名:明智山城?

標高:90m

比高:70m

築城年:天文11(1542)から15年(1546)頃か

城主:岡志摩守景勝、河野刑部光重

場所:広島県福山市大門町東谷

北緯:東経:34.504123/133.439065

枝広城はここ

 

攻城記

大手方面から攻める。

尾根を進む。

本丸。

一段下がったところ。

更に一段下がったところ。

周辺部。

現在は神社となっている。

このまま進むと麓に行くので戻る。

曲輪もところどころにある。

本丸まで戻ってくる。

位置関係

天文16年頃手城山城を攻略した小早川軍が枝広城を攻めることとなる。

 

open-hinataより【枝広城】

 

余湖図【枝広城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

JR大門駅から北に平地を三百m進み、旧大門郵便局の脇の幕山へ抜ける道を 北に五百mほど登ると、枝広城の大手口に至る。

 

大門のダサー山の尾根の突端部 の標高八九・二mの小高い山の頂きに築かれた山城である。

 

大手口から南東に少 ると、大きな堀切があり、東西に広がる主郭に至る。

 

東側に張り出した部 三段あり、南側の下った所にも郭があり、その西側には土塁が見られる。

 

主郭と 南側の郭との間には、山上神社、石鎚神社、稲荷神社の三神が祀られている。

 

『備陽六郡志』に大門村には古城二ヶ所、城山と明智山城、野々浜村に古城一ケ所あり、『西備名区』には、大門村に明智山城あり、野々浜にも明智山城ありと云う。

 

『福山志料』には、大門村に城山城、野々浜村に明知山城があると云う。

 

また、江戸時代(万延元(一八六〇)年)に作成された地図には、大門村に枝広城のみが書かれている。

 

大門町の城跡は、同一名称の二つの城説と一つの城を二通りに呼ぶ説があって、未だ定説がない。

 

『備陽史探訪の会の続・山城探訪』枝広城より引用。

 

城の歴史

天文13年(1544):8月大内氏から五箇庄が「無主」であることからこれを竹原小早川家に預け、ここの城を築城するよう命じる。

『小早川家文書之二』 小早川家証文四三三号

 

大意

備後外郡五ケ荘(または五ヶ)は坪生荘より分離したその南部の 海より一帯の地で、今日の大門、能島、野々浜、津之下(以上福山市大 門町)および引野(福山市引野町)を含む一帯の地と思われるが、天文 十三年(一五四四)大内氏がこの五ヶ荘を竹原小早川氏に預け、この地 の内に神辺城攻撃の拠点となる一城を築いて堅固に抱えさせることにしたのは、竹原小川一族が、海上に発展しており、海上連絡に便宜を持 っていたからであり、天文十三年八月七日付で、弘中隆兼に対してこの ことを実行するよう申し送っている。

 

注:当然この地には山名理興がいるので、実力で奪い取れという指示になる。

 

天文15年(1546)若しくは16年(1547):この頃大内、毛利VS山名理興(尼子方)で行われた神辺合戦で、竹原小早川軍は大門湾周辺の手城島城や明智山城(枝広城?)を落とし、大門湾周辺の占拠に成功する。

 

所感

●城の規模は大きくないが、岡志摩守景勝が必死で守っていたものと思われる。

 

●小早川家臣に岡氏がいる

岡与三左衛門(与次郎、和次泉守)就栄

同与三左衛門(和泉守) 忠

ひょっとしたらこの一族に連なるものなのかもしれないが、これ以上は探ることができない。

 

●当時はかなり奥まで海であったため、この城も海に面した城だったのかもしれない。

当時の推定海岸線。

 

関連URL

【広島県】手城山城【福山市東手城町】

小早川氏が最初に攻略した城。

 

参考URL

備後国深津郡五箇庄大津野地区/坪生庄⑥

 

参考文献

『備陽史探訪の会の続・山城探訪』

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

公開日2022/05/03

 

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