城データ
城名:阿良井城(あらいじょう)
別名:無し
標高:350m
比高:20m
築城年:不明
城主:児玉氏
場所:広島県東広島市福富町下竹仁
北緯:東経:34.532167/132.756174
攻城記
朽ちた看板。
綺麗な切岸。
二の丸。
本丸からの風景。
本丸。
簡単な造りの城。
川が天然の堀の役割をしている。
なかなか急峻な感じ。
本丸にある井戸跡。
南に降りてみる、これは登るのが難しい。
これでは攻めにくい。
阿良井城全景。
番外編
地元の方に確認すると、前方の川の河原に墓石があるとのことだったので行ってみる。
それっぽいものは確認できなかった。
open-hinataより【阿良井城】
余湖図【阿良井城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【阿良井城】
拡大図。
城の概要
方形の主郭とその南下にある郭からなる。
主郭の規模は約30×20mである。
城主は児玉氏と伝えられる。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
阿良井城
児玉氏は下竹仁の阿良井城を居城とした。
城麓下に今でも水量の豊富な川が流れ天然の濠をなしており、 要害であるが周囲全体からみればすり鉢の底にあるような位置にある。
応永十一年(一四〇四)九月の安芸国諸城主一揆契約三三人中兒玉豊前守広家の名がみえるが、広家は三流の中で長兄であるそのためこの阿良井城に入ったのであろうか。
『賀茂郡史 中世武士編』より引用。
城の歴史
承久3年(1221):児玉氏は承久の変後に、竹仁上下村の地頭となっている。
弘安4年(1281):北条時宗の命により、異国船警備のために西下する、この頃築城か。
貞和7年(1350):竹仁上下村の地頭職を足利尊氏から安堵される。
※貞和は6年まで。
萩藩閥閲録巻17-82より
応永11年(1404):安芸国諸城主連署契状の中で7番目に児玉豊前廣家とある。。
毛利家文書24より一部抜粋。
応永27年(1420):伊勢神宮造営のため、毛利氏はその造営料の一部を神宮に寄進しているが、その中に上竹仁の名がある。
当時すでにこの地が児玉氏から毛利氏のものに浸食されていったものと考えられる。
毛利家文書26より一部抜粋。
5世紀には児玉氏は毛利氏の家臣となっていったと思われる。
その時にはすでに竹仁村の地頭から離れていたかもしれない。
しかし、児玉氏は後に大いに繁栄することとなる。
城主家系図
阿良井城の城主の系統はどちらか不明。
児玉就忠は元実の次男であったが、家行の養子となる。
所感
●小ぶりながら、切岸もしっかりしており、精巧な印象をうける。
●城というよりも城館な感じをうける。
●井戸跡がしっかりと残っている。
●地元の方に聞いたところ、昔は城跡に何かしらの建物があったらしい。
●児玉氏は庄屋であったが、明治新姓の時に皆が児玉姓になった為、本家児玉は古玉に改姓した。
関連URL
子孫の児玉氏の城。
参考URL
参考文献
『賀茂郡史 中世武士編』
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『安芸の城館』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/02/12