城データ
城名:志道城
別名:志路城
標高:290m
比高:80m
築城年:不明
城主:志道氏
場所:広島県広島市安佐北区白木町大字志路
北緯:東経:34.585247/132.626481
攻城記
標識があり分かりやすい。
看板発見。
どうもこの上らしい、付近の方に尋ねて入り口を教えていただく。
土塁のような高まりを発見。馬場と呼ばれるところか。
明らかに土塁だと思う。
人工か自然か分からない。
さらに進む。
削平地発見。。
二段になっている。
石積発見。
上を目指す。
堀切。
あの上が本丸。
本丸部分。
本丸は綺麗な削平地になっている。
本丸から麓を臨む。
龍福寺跡【志道氏菩提寺】
近隣城郭【中ノ城】
松田氏がいたらしい。
open-hinataより【志道城】
余湖図【志道城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【志道城】
城の概要
本城跡は、栄堂川沿いに分布する六つの城のうち最西端に位置している。
最高所の1郭を中心にして北・北東・南東の三方向に延びる尾根上に、それぞれ郭を一つ、二つ、三つ配し、北側尾根続きを堀切で断ち切っている。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
城山 安佐北区白木町志路
上梶名にあり、高田郡の「国郡志下調郡辻書出帳」には「城山 城主志路上野之助 壇数四、外名目有之候得 共、当時作面相成居申候高凡四町、廻同拾参町」とある。
この地に居を構えた志道氏の居城跡で、「高田郡村々覚書」は城について「高さ七間、横十二間、此城主志道 上野介殿御知行二千石之由、元就公御孫子様長州え御出 被成候時に御供の由」とある。
現在壇が四つ残り、山麓に土居の地名がある。
志道氏の菩提寺竜福寺跡には一族 の墓所がある。
志道氏は、毛利親衡次男匡時の孫、坂下総守広秋の四 男元良を祖とし、初め毛利を称したが、志道村(志路村) に住したため志道氏を称した。
元良の嫡子上野介広良は 毛利興元・幸松丸・元就と三代に仕えて執権役を勤めた 重臣で、その子孫一門は毛利氏の重臣として毛利氏の中 国征覇に大きな功績があった。
慶長五年(六〇〇)防長移 封の時これに随従し、志路村を去った。
『広島県の地名』より引用。
城の歴史
戦の記録はないが、毛利氏の執権として様々な席で重要な判断をしていたと思われる。
城主家系図
城主石高
志道太郎三郎(元幸)
1324.327石
【内訳】
422.199石 出雲 出東
613.710石 安芸 高田
b55.421石 安芸 豊田
212.997石 周防 熊毛
志道太郎左衛門(元勝)
296.475石 備中 下通
志道左馬助(元辰)
176.578石
【内訳】
158.328石 安芸 高田
49.820石 備後 三吉
志道惣兵衛(不明)
150.710石
【内訳】
100.890石 安芸 高田
49.820石 備後 三吉
志道長門(不明)
50.011石 出雲 神門
所感
●毛利家執権の城としては少し小ぶりのような感じを受ける。
●ただし、近隣には多くの支城があるので、これらの城と連携して対抗しようと考えたのかもしれない。
●地元の方に話を聞いたら、本丸部分では土器の欠片も見つけたらしい。
関連URL
参考URL
参考文献
『白木町史』
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『安芸の城館』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/01/30