城データ

城名:室積台場

別名:女台場

標高:1m

比高:1m

築城年:弘化4年(1847)に台場として築かれた

城主:長州藩管轄

場所:山口県光市室積

北緯:東経:33.920641/131.976523

室積台場はここ

 

攻城記

規模は小さい

 

余湖図【室積台場】

 

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

 

【航空写真】

 

城の概要

光市指定文化財 (史跡) 

室積台場

昭和五年七月一四日指定

 

室積台場は江戸時代末期、異国船の来航に備え、長州藩が海岸防備のために築造した砲台場である。

 

藩主毛利敬親は弘化二年(一八四五)、萩城下を皮切り に北浦海岸の台場建設を開始した。弘化三年三月には、台場の範囲を瀬戸内海沿岸に広げ、新たに室積、上関、三田尻、大浜、丸尾崎など八か所を選定した。

 

これらの台場は『長門周防要津図』に記し、同年一二月、幕府へ提出した。

 

弘化四年三月、幕府から大砲設置を許された長州藩は五月に海防強化を発令し、室積の象鼻ヶ岬に台場を急造した。

 

完成した台場は、翌嘉永元年(一八四八)四月、『書札控』(佐藤作左衛門筆)の御手洗湾絵図に記録された

 

室積台場では、土砂を高く盛り、その法面に無数の自然石を積み上げて、「垜」と呼ばれる防御用石塁を築いた

 

三基の「垜」の間には、大砲二門を据え付けた。

 

また、 煙硝蔵(火薬庫)を象眼水井戸付近に、遠見番所を峨嵋山頂に設置し、海岸線の守りを固めた。

 

台場はその後、台風で大きな損傷を受けたが、保存のための修復を施し、二基が今もその面影を残している

 

令和元年九月

光市教育委員会

 

看板より引用

 

室積台場

室積の象鼻ヶ岬の先端には、 明治初年に廃寺となった象鼻山海蔵寺の建物があり、その裏手には無数の自然石を積み上げた台場が、 湾外に向けて置かれている。

この台場は、 弘化3年(1846) ごろ、 対外情勢の緊迫につれ、沿岸防備の目 的で、 長州藩が全国に先がけて築塁したものである。

当時は3基築塁され、それぞれに大砲が据え付けられていたようである。 熊毛郡の防備範囲は浅江村から伊保庄浦 (柳井市)までで、 役人は一ノ手が代官 ・地方役人を含め総勢300人、 二ノ手が寄組ほか総勢190人があてられた。

 

翌年には三匁玉筒拾挺実弾 3,000個をはじめ戦闘用具一式が備えられた。

同玉目筒と充実されている。 また、 峨嵋山の山頂に遠見番 三貫目玉筒元治元年(1864) には五百目玉筒 百目玉筒  野戦砲六貫目 玉筒拾貫目  玉所、象眼水井戸付近に煙硝蔵 (火薬庫) を設置。

 

それぞれの部署に諸役人を配置し、常時実弾発砲訓練が行なわれたが、 実戦に使われたという記録は見あたらない。

 

その後、 内外ともに激動の時代を経て、 台場の様相も変化し、 昭和19年(1944) には台風によって1基が破壊された。

昭和51年7月市の史跡文化財として指定され、 幕末史をみるうえで貴重な史料となっている。

 

『光市史跡探訪 第1集』より引用

 

 

城の歴史

弘化4年(1847):長州藩は五月に海防強化を発令し、室積の象鼻ヶ岬に台場を急造した

 

所感

●象鼻ヶ岬の先端付近にあるが規模は小さい

●自然石を積み上げた台場で石は海岸にあったものか

●江戸時代末、四国艦隊の報復攻撃に備え沿岸に砲台場を築いたもの

●当時の長州藩は男手が不足し、後に残った婦女子が中心になってこれを築いたらしい

※このことから、通称「女台場」といわれる

 

関連URL

 

参考URL

城郭放浪記(室積台場)

山口県観光サイト(室積台場跡)

 

参考文献

光市史跡探訪 第1集

 

公開日2026/01/02

ホームに戻る

攻城一覧

 

Copyright © 山城攻城記 All Rights Reserved.