城データ
城名:陶氏館跡
別名:無し
標高:29m
比高:0m
築城年:南北朝時代か
城主:陶弘賢
場所:山口県山口市陶字寺中、地家
北緯:東経:34.096356/131.426372
攻城記
陶晴賢の分骨塔
2代目陶弘政の墓がある
陶晴賢の分骨塔
山口県のこの時代の墓は特徴がある
左が2代目陶弘政の墓
正護寺殿の彫ってあるので戒名であったと思われる
歴代住職の墓
脇門
山門
小郡代官所の門を移築したらしい
本堂
この田んぼの範囲が当時の陶氏の館であった
寺の裏側
陶氏の家紋がある
1000年前にここに20年位庁舎があったらしい
恐らく庁舎のあった平安時代初期はすぐ先まで海であったと思われる
位置関係
全国Q地図より【陶氏館跡】
余湖図【陶氏館跡】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
概要 河内山地の南麓、百谷川の右岸に広がる標高27mの台地上に位置する。
当地は、南に山陽道が通り、 東には黒河内山地の陶峠を経て、 山口盆地の黒川に抜ける秋穂街道が所在する位置にある。
館跡は、台地上にある正護寺の南側に広がる一帯とみられている。 現状で推定できる遺構は、正護寺周辺およびその東辺に残る土塁状の高まりであり、 堀などの遺構は確認できない。
東辺に残存する 土塁は、 長さ約110mで、 基底部幅約5m 高さ約2m。 敷地のコーナー部分の土塁が残っていないため、館の規模や形状については不明である。
館内部とみられる範囲には水田が広がっているが、 平坦ではなく、南に傾斜している。
当館跡では、山口市教育委員会が昭和61年度 (1986) に現地踏査を行い、 平成15年度(2003) に開発に伴う試掘調査、 平成16年度に工事立会を実施した。
試掘調査は土塁の内部となる西側で行い、 溝状遺構を確認したが、 他に明確な城館遺構は検出されなかった。
また工事立会でも遺構は確認され なかった。
陶氏は大内氏の一族である右田氏が、 弘賢の時に陶の地に居を構えたことから、陶氏を称したとされる。
弘賢の子である弘政が建立したとされる正護寺が館跡とみられる北側にあり、境内には弘政とされる墓が所在する。
『注進案』 には 「弘賢弘政の旧址」との記載がある (『注進案』 小郡宰判陶村)。
南北朝期に南朝方の大内弘世と北朝方の鷲頭氏との戦いに際し て、陶弘政は都濃郡富田保 (現・ 周南市) に移住し、 館を構えたとされる。
このことより当館跡 は南北朝期のものとみられるが、明確な時期を示す資料は得 られていない。
『山口県中世城館遺跡総合調査報告書-周防国編-』より引用
城の歴史
南北朝期に右田弘賢氏がこの地に入り苗字を陶に改める
陶弘賢のこども弘政が正護寺を建立するが、北朝側の鷲頭氏と戦う為に最前線の周南市に館を移す
城主家系図
所感
●正護寺より南に館跡があったが発掘調査で大きな発見は無かったらしい
●初代2代までしかおらず、長い期間いなかったことが原因か
●正護寺も毛利元就が再興して現在の地に移したようだ
関連URL
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『山口県中世城館遺跡総合調査報告書-周防国編-』
『山口県の地名』
公開日2025/09/07