城データ
城名:勝栄寺
別名:無し
標高:2m
比高:0m
築城年:正平5年・観応元年(1350年)頃に陶弘政によって築かれたと云われる。
城主:陶氏
場所:山口県周南市大字富田字清水
北緯:東経:34.070516/131.765715
攻城記
全国Q地図より【勝栄寺】5mメッシュ
余湖図【勝栄寺】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
富田川河口付近の三角州上に立地する。
当地には東西に山陽道が通り、かつ、 富田津があったとされ、 海陸交通の要衝である。
現存の旧境内地は東西約100m、 南北約50mの 1/2 町程度の規模である。
敷地の西側にて土塁が現存 する。 ただし、南面する部分は国鉄山陽本線敷設時に破壊され、 元の位置より北へ寄せて復元されている。
都市開発を契機に、 新南陽市教育委員会によって発掘調査が2回実施され (新南陽市教育委員会 1985) その後、史跡整備に伴う調査が実施されている (新南 陽市教育委員会 1992)。
土塁は現状で裾部幅7~9m、 上面幅約1~2m、 高さ約 1.5~2.5mの規模であるが、 土層観察では内部にひとまわり小さい旧土塁を確認している。
旧土塁の規模は裾部幅約5.2m 高さ約1.5mである。
この 旧土塁は海砂によるものであり、 堀の掘削土を積み上 げたものとみられる。
また、 北辺東側において、 旧土 塁の上面に柱穴列が 110~150cm間隔で並んでいる状況が検出された。
土塁の外側には幅約5.8m、 深さ約 1.6mの堀が巡る。 堀と土塁の間には、 外肩より一段低い幅約4.2m の平坦面が土塁裾を巡る。
この平坦面は、江戸時代の『防長寺社由来』 絵図に記された、 境内西半分の三方 に見られる土塁と堀の間の帯状部分に相当するものと推定される。
なお、この堀からは瓦質土器片と下駄が出土している。
土塁の内側については、旧境内の西側にて上下2面の遺構面が検出されており、上面では近世以降、 下面では中世の遺構が確認されている。
中世の遺構面では、石室墓・集石遺構・土坑・溝状遺構・小 穴などが検出された。
ほとんどが室町時代後半期のものだが、 石室墓については勝栄寺創建以前に遡る可能性がある。
遺物は土師器皿・瓦質土器鍋・中国産白磁皿・鉄釘・土錘などのほか五輪塔・宝篋印塔などが出土しており、墓地としての性格も窺える。
勝栄寺由来書によると、開山は其阿上人、開基は陶越前入道道栄(陶弘政)であり、寺廻りに大土手(土塁)があり、外側は堀であることを記載している
。
其阿上人は天授5(1379) 年に入寂している。一方、 陶弘政は富田保の地頭として入部し、同保を拠点として正平7年 (1352) 頃から北朝方の鷲頭氏と 戦い始めている。
このことから、 勝栄寺の創建年代は1350~80年の間と推定されている。
勝栄寺には陶弘政が2町5段の田地を寄進している。
また、 戦国時代 (天文期)には「富田道場」 と呼ばれ、遊行上人の往来に際して陶氏が奉加米を出しているなど、陶氏の氏寺としての側面をもつ。
『地下上申』では、古市のはずれにある勝栄寺をもって道 場といい、当時は時宗であっ たとする (『地下上申』 25新 南陽市富田村)。
昭和62年(1987)、「勝栄寺土塁及び旧境内」として県 史跡に指定された。
『山口県中世城館遺跡総合調査報告書-周防国編-』より引用
城の歴史
正平5年・観応元年(1350年)頃:陶弘政によって築かれたと云われる
弘治3年(1557):毛利元就の防長経略時に元就がこの寺にて教訓状を息子らにしたためる。
所感
●600年以上前の土塁が現存していることに感動。
●当時は周囲を土塁で囲われ、その周りを堀で固めている堅牢な寺院城郭であったと思われる。
●おそらく寺の前は海岸線が広がっていたのではないか?
●豊臣秀吉も駐留したことがあるらしく、ビックネームが多い。
関連URL
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『山口県中世城館遺跡総合調査報告書-周防国編-』
公開日2025/08/17