城データ
城名:弁財天城
別名:無し
標高:550m
比高:250m
築城年:戦国時代か
城主:不明(天野氏もしくは財満氏などか)
場所:広島県東広島市志和町志和東
北緯:東経:34.483938/132.700441
攻城記
攻城スタート。
最初は綺麗な道があるが途中からは直登。
尾根に到着。
尾根道は歩きやすい。
途中木が伐採されており眺望がいところがある。
ゴルフコースが太陽光パネルでいっぱいになっている。
やっと最初の曲輪に到着。
鉄塔で一部戒改変されている。
本丸。
面積は広くない。
本丸1段降りたところ。
更に下っていく。
長大な曲輪がある。
見どころ。
先端に到着。
先端からの眺望、木が無かったらかなり遠くまで見通せる。
この眺望の先に米山城がある。
石積みっぽい。
帰り際に子鹿が休憩中であった。
【並瀧寺】
位置関係
open-hinataより【弁財天城】
余湖図【弁財天城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【弁財天城】
城の概要
城跡の遺構は山頂部分と南西尾根部分からなる。
最高所に櫓台をもつ1郭を置き,東に堀切をへだてて2郭を設ける。
2郭の北東には堀切を設け,尾根続きを遮断している。
山頂郭群の南西尾根筋上には広い郭を配している。南端の郭には桝形状になった部分がある。郭の配置からすれば,防御正面は北西であろう。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
弁財天城
志和東の上只にある。
並滝寺がうしろに背負う標高で五五〇mの山頂がそれである。
誰が守っていたかわかっていない。天野氏の属城の一つか あるいは並滝寺に関係するものであったかも知れない。
遺構は尾根にそって東西に流れ、中央の三角点が一番高く いわゆる本丸に比定されるところであろう。
『賀茂郡史』-中世武士編-より引用
城の歴史
詳細不明。
大永5年(1525)に陶興房が天野興定の守城を攻めた時に、並瀧寺も兵火にかかりて焼けているので、弁財天城も同様に落城したと思われる。
所感
●国土地理院の道に沿って山を直登、尾根まで着くと楽に進める。
●並瀧寺の裏からも登れる気配はあった。
●本丸周辺は面積も狭く籠城には不向きであるが、西方面に長大な曲輪があり、多くの兵が駐屯出来る。
関連URL
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
『賀茂郡史』-中世武士編-
『志和町史』
『賀茂郡古城史』
公開日2024/05/26