城データ

城名:洲本城

別名:三熊城

標高:132m

比高:130m

築城年:室町時代後期

城主:安宅氏、仙石秀久、脇坂氏、蜂須賀氏、稲田氏(城代)

場所:兵庫県洲本市山手1丁目

北緯:東経:34.337712/134.903011

洲本城はここ

 

 

攻城記

麓からみるとかなり山頂にある。

江戸時代はこの場所に山麓居館があった。

山麓居館の石垣。

山頂めがけて進む。

普通に急峻。

瓦などはゴロゴロある。

30分位登れば到着。

城域に到達。

まずは周辺を散策。

東の丸 二段曲輪という場所だった。

 

東の丸 あまり見どころはない。

武者溜は一番広い。

東一の門

武者溜に戻る。

登り石垣。

東二の門付近の石垣

このような場所が一番興味がある。

崩れた石垣を修復中。

狸の話。

本丸石垣。

西の丸の石垣。

更に進んでいく。

削平地がある。

 

open-hinataより【洲本城】

 

余湖図【洲本城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

現在、残存している城郭の遺構の大部分は江戸時代初期のもので、当初構築 された安宅氏の城はまったく不明であり、桃山時代の脇坂氏の遺構と考えられる石垣も一部だけしか残っていない。

 

大手門を南側に、天守を北側のもっとも奥の最高所に設けた繩張りで、天守 台の南下が本丸にあたる。

 

遺存する石垣から考えると、天守は大天守と小天守 との間を繋ぎ櫓で連結されたものであろう。

 

本丸からの縄張りを合わせると、 連立式天守の感がする。小天守には付櫓が付属していたと考えられる。

 

登閣に はまず付櫓から入り、その二重から小天守へ、さらに繋ぎ櫓を通って大天守に 登ったらしい。

 

ただし、江戸時代に構築された石垣の上に建造物があったとす る記録がないため、その規模や構造はいっさい不明である。

 

絵図面によると、 山頂・山麓には櫓・塀などはなく、御殿と付属建物が描かれているだけである。

 

天守台上は正しい長方形をなさず、各辺の中央部が内側に弓なりの糸巻状にな っている。 天守台下にある本丸は中核部にふさわしく、各郭の中では最高所にある。

 

丸の南側には南の丸がある。二の丸に匹敵する本丸に次ぐ重要な郭である。 頂は南北に幅狭く、そのためこれから郭を囲むように東西に郭台が広がってい 東側には東の丸があって、この北端に格台が高く設営されている。

 

また、こ の南側に用水池と井戸がある。池は渇水期でも水が溜れることがない。山城で 用水溜池は給水のための重要な一角であって、優れた構成を今に伝えており、 特に山城で井戸を構えることはあっても、池の例は極めて少ない。

 

水の手の南下には大手門と馬屋と称される郭台が東向きに突き出ている。

 

紀淡海峡や和歌山方面が望める絶景の地で、通称「月見台」とよばれている。

 

東の丸の東側は武者溜りで、比較的広い郭地である。南の丸の西方一段に 蔵と称する一角があるが、米蔵・食糧庫が設けられていた箇所と考えられる。

 

西の丸はこの地点から西へ狭い尾根伝いの山頂にあって、この郭だけが別峰に 独立しており、台地は本丸の天守台とほぼ等高である。

 

山城の全域の石垣は、この山に産する砂岩と同質の石材を用い、打ち込みはぎの技法で構築されている。

 

東の丸北東部や本丸台南東部の一部などには自然 石を用いた古式の構築法石垣が残存し、仙石・脇坂氏時代の城郭の上に江戸時 代初期の大改築がなされたものと推定される。

 

山麓の石垣は、この点、特に顕 著で、北面は花崗岩を用いた加工石を使用している。 山上各郭から出土する古瓦は安土桃山時代の平瓦・丸瓦・軒平瓦・軒丸瓦な どで、脇坂氏の「輪違い紋」瓦が本丸を中心に発見されている。

 

このほか、正 方形と長方形状の三種類の数がみつかっている。山麓の櫓台からは江戸時代の 蜂須賀氏紋瓦が石垣の修築工事の時に出土し、山上・山下の作事の一面がうかがえる。

 

元和元年(一六一五)に「一国一城令」が江戸幕府から発せられ、諸国領内に 残存する小城郭が破却された。

 

しかし、蜂須賀氏阿波藩は淡路一国をも領有するため、洲本城構築が許されたのは前述のとおり「由良引け」の寛永八年以後 である。

 

この時点では「須本御番所」であり、のちに「御城地御殿」とよび、 やがて「洲本御城」と称する旨の命令が発せられた。

 

麓の御城の石垣は山裾に 向かって「コ」の字形に構えられ、北方が正面にあたり、中央に内桝形が設置 された。城郭は要害堅固という構成から程遠い屋敷城造りで、城下町はこの北 面の堀を隔てて北方から西方に設営された。

 

南壁は三熊山、東面は海、北・西 方は塩屋川が迂回している。このような天然の要害を活用するについては早く から蜂須賀氏が着目していた。城下町中央にも堀が南北に走り、東側を内町、 西側を外町として区分し、中央内町側に桝形を設けて、近くの会所で奉行事務 がなされた。

 

内町の道はT字形を採用し、外町は長方形の碁盤割りである。

 

そして、外町の川端に由良から移転した寺院を配置して寺町を造り、城下の防禦 線とした。

 

また、この東側に鉄砲屋敷も建設している。 このほか、珍しい郭構成として、山の北斜面に残っている石塁群がある。

 

天守台直下から山麓にかけての一連のもの、東の丸櫓台下から山麓にかけての一 連のものと二条あって、「登り石垣」と称している。

 

それはちょうど山下の東 と西の石垣線とに延長して結びつけることができ、山城と平城との結合関係がうかがえる。

 

おそらくは山城の北面防備のために構えられたのであろうが、山 上の城郭遺構も含めた要害を構成している

 

『日本城郭大系』13より一部引用

城の歴史

永正年間(1500年代初頭):由良、炬口に進出して来た、紀州熊野水軍の安宅一族が、大阪湾制御の要として洲本城を築城し始める。

 

天文5年(1536):阿波国守護三好元長の三男冬康、淡路安宅氏の養子となる、 三好氏上京作戦への布石。

 

天文23年(1554):三好四兄弟(長慶、義贤、冬康、一存)洲本会談。

 

永禄三年(1560):三好兄弟、 第二回洲木会談 天下制圧の打合わせ。

 

永禄7年(1564):安宅冬康、河内飯盛城で兄長慶に暗殺される。 安宅信康・清康、洲本、由良城を守る。

 

天正9年(1581):織田信長の命により羽柴秀吉淡路を征討

 

安宅清康開城して信長を安土に訪れ帰国後病死淡路安宅氏減亡

 

安宅氏時代の洲本城は、土塁と空掘により砦を守る中世山城なので、織田軍の鉄砲隊には対抗出来なかった。

 

天正10年(1582):四国の長宗我部氏機内進出を計り、淡路土着の水軍の将菅平右工門に洲本城を占领させる。

 

六月、山崎の会戦に向う秀吉は、部将の仙石権兵衛、石井与兵術を洲本に差向け、洲木城を奪置させる。

 

八月、仙石権兵衛秀久洲本城主となり、四国攻めの準備で洲本城を修築、水軍を強化し始める。

 

天正13年(1584):秀吉の四国攻め始まる。弟秀長、養子秀次で戦闘指揮

 

六月十八日 洲本城より出陣、福良渡海  仙石秀久は淡岐で奮戦、戦後高松城主となる。

 

十一月脇坂其内安治(中務少輔)洲本城主となる。

 

洲木城の木格的修築始まる。現在の道構は殆んどが脇坂氏在城中に修築したものである。

 

城主家系図

 

 

城主(一族)石高

千石時代:7万石

脇坂時代:3万石

稲田時代:14500石

※稲田氏は蜂須賀氏の家老。

 

所感

●山城であるが、戦国時代も最後の方で脇坂氏が改修したため、非常に精巧な造りになっている。

 

●脇坂時代は3万石であるが、この石高でこの山城を改修したとなると、相当な負担ではなかったか。

 

●洲本八景の名所で抜群の景色が特徴。

 

●石垣好きにはたまらない城。

 

関連URL

 

参考URL

洲本城(ウッキペディア)

淡路文化史料館

城郭放浪記(洲本城)

 

参考文献

『日本城郭大系』13

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