城データ

城名:尼崎城

別名:琴浦城、琴城、尼丘城

標高:0m

比高:0m

築城年:元和3年(1617年)

城主:戸田氏鉄、青山氏、松平氏

場所:兵庫県尼崎市北城内

北緯:東経:34.716690/135.418761

尼崎城はここ

 

攻城記

 

 

open-hinataより【尼崎城】

 

 

余湖図【尼崎城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

戦前の航空写真

堀の跡が僅かに分かるか。

 

明治時代の地形図

まだ堀の跡が分かる。

 

城の概要

近世の尼崎城は大阪の西方約一二㎞、阪神電鉄尼崎駅の東南地域(庄下川の 東側、阪神電鉄尼崎車庫の南側一帯)にある。

 

現在、本丸跡に城内中学校・城 内小学校があり、その他の郭跡にも児童館・病院・公共施設・民家などが建ち、 完全に市街化し、遺構はまったく残っておらず、わずかに「北城内」「南城内」 という地名に名残をとどめている。

 

尼崎は平安時代以来、西国から京都・大坂へ向かう水陸双方の交通の要所で、港町として発展した。

 

そのため、応仁の乱以後、数多くの武将たちが陣地を置く最良の地として利用し、たびたび戦場となった。

 

尼崎築城の時期について「如来院文書」は永正十六年(一五一九)二月十七日とし、細川高国が尼崎に柵城を築いたことを伝えている。

 

また、下って大永六年 (一五二六)には細川高国が細川尹野に命じて尼崎城を築かせたが、それは土塁や石垣、あるいは堀をめぐらした”邸城”程度の規模と考えられ、その場所は 近世尼崎城本丸の地域にあったものと思われる。

 

豊臣氏時代以来、尼崎の郡代であった建部氏は、慶長五年(一六〇〇)の関ケ 原の戦の時、西軍(石田三成方)に属し、東軍(徳川家康方)から処分を受けそうになったが、外叔父の池田輝政の嘆願によって許され、尼崎の領有を引き続 き認められた。

 

そして同十九年(一六一四)の大坂冬の陣、翌元和元年(一六一 五)の大坂夏の陣の時、尼崎郡代であった建部政長は東軍に属し、慶長十九年五月、江戸幕府から尼崎代官を命ぜられた叔父の池田重利と共に尼崎を守備し、 戦功によって一万石の加増を受け、尼崎藩主となったが、元和三年(一六一七) に播磨国林田(姫路市林田)へ移封となった。

 

一方、尼崎代官であった池田重利も一万石の加加増を受け、同年、播磨国新宮 (揖保郡新宮町)へ移封となった。

 

建部政長に代わって同年七月、 近江国膳所(滋賀県大津市)から戸田氏鉄が五万石の所領で尼崎へ入封し、同年十月、幕府は山岡図頭景以・戸川助左衛門勝安・村上 三右衛門吉正・建部三十郎政長を奉行として派遣し、氏鉄に新城建設を命じた。

 

翌四年春頃から築城が開始され、 戦国時代から尼崎町とよばれてい た町場の西半分の地域に本丸を中 心に二の丸・松の丸・南浜・西三 の丸・東三の丸の各郭を螺旋状に配置し、本丸の北東隅には四層の天守閣を持つ近世尼崎城を数年の歳月をかけ て築いた。

 

元和元年に一国一城令が江戸幕府から発せられ、一落一城となり、城の修理・ 増築にも幕府の許可が必要となったが、このような時期に尼崎築城が命じられ たのは、尼崎が古来から水陸双方の交通の要所であり、特に大坂の”西の守 り”として重要な地点にあったからにほかならない。

 

このことは同五年九月、 二代将軍徳川秀忠が大坂城修築状況を巡視した時、その足で尼崎の築城状況も視察し、出来映えを褒め、氏鉄に恩賞として金・銀・馬などを与えていること からもうかがえる。

 

『日本城郭大系』12より引用

 

城の歴史

元和3年(1617):戸田氏鉄が築城。

 

城主(一族)石高

戸田氏時代:5万石

青山氏時代:3.3万石

松平氏時代:4.8石

 

所感

●個人で10億円出して再興させたのはすごい事、逆に10億円かけないと出来ないとなると、当時も築城には膨大な金がかかっていた。

 

●当時の城の場所とは再興の場所が違うのは、本丸の場所に小学校があるから。

 

●西にはすぐ川があり、天然の堀の役割をしていた。

 

関連URL

【岐阜県】大垣市【大垣市郭町】

戸田氏移転の城。

 

参考URL

尼崎城(公式)

尼崎城(ウッキペディア)

城郭放浪記(尼崎城)

 

参考文献

『日本城郭大系』12

 

 

公開日2024/02/23

ホームに戻る

攻城一覧

 

Copyright © 山城攻城記 All Rights Reserved.