城データ
城名:熊谷氏土居屋敷跡
別名:無し
標高:46m
比高:1m
築城年:16世紀前半か。
城主:熊谷氏
場所:広島県広島市安佐北区可部町三入一丁目
北緯:東経:34.532399/132.521436
攻城記
正面玄関跡。
整然と並んでいる。
上から見ると。
裏から見ると。
位置関係
open-hinataより【熊谷氏土居屋敷跡】
余湖図【熊谷氏土居屋敷跡】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【熊谷氏土居屋敷跡】
1960代の航空写真
現在の航空写真
城の概要
現在、巨石を使用した石垣が南北方向に約30m残っている。
この石垣が門から北側部分の範囲を示すと思われるので,門幅を2〜3mとすると,屋敷内部の規模は約60m四方に復元できる。
また,屋敷の西と南の土地区画からは堀跡が復元できるので,北側にも堀が巡っていたことが推定される。
本屋敷跡は,熊谷氏が伊勢カ坪城から高松山城へ移った頃築かれたといわれる。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
熊谷氏の遺跡・土居屋敷跡
指定昭和45年1月30日 広島可部町大字下町屋字土居
熊谷氏と三入荘
承久の変(1221年)で勝利をおさめた鎌倉幕府は、戦功のあった武将たちを西国各地の守護・地頭に任じた。
武蔵国熊谷郡(埼玉県熊谷市)の熊谷氏は、安芸国三入荘(現在の大字大林、桐原、上・下町屋付近)の地頭に任ぜられると、間もなくこの地に移り伊勢が
坪に域を築いた。
その後室町期に入ってから戦略的により優れた高松山に処を進め、。麓に屋敷を構えた。
また、この屋敷と根之谷川をはさんで向い合う位置に一族の菩提所・正法山観音寺を営んだ。
土居屋敷跡
伊勢が坪城から高松城に本拠を進めた熊谷氏が、天正19年(1591年)毛利氏に従って広島に移るまで、平生使用していた屋敷跡・政庁跡である。
背後に高松城(海抜高度339m)をひかえ、前面の根之谷川を天然の堀とした要害の地にある。
屋敷跡の広さは約20アールと推定されるが、現在は、わずかにし字型に残る石垣にその跡をとどめる。
なお、正面中央付近の「切りかけ」は門跡と考えられている。
また、この付近一帯の字を土居というが、これは有力な地方豪族の屋敷を中心とした中世の集落が、この地に存在していたことを物語るものである。
説明板設置については、ここの土地所有者で、熊谷氏の子孫と伝えられる岡太直氏の承諾を得たものである。
昭和52年3月1日広島市教育委員会
看板より
城館の歴史
熊谷氏が伊勢カ坪城から高松山城へ移った頃築かれたといわれるため、16世紀の初めにはすでにこの地にあったと思われる。
ということは、
永正14年(1517):熊谷元直がこの館から有田中井手の合戦に赴き戦死。
大永7年(1527):近隣の山中成祐が信直を暗殺しようとして失敗、逆に山中氏を謀殺。
天文2年(1533):武田氏から離反、武田光和の攻撃を受けた際にも館から高松山城に退避。
吉川元春の妻となる新庄局もこの年に生まれる。
天正19年(1591)に広島城下に移る。
所感
●中は墓所や駐車場になており往時の姿は想像しにくいが敷地面積は広く、毛利一族に名を連ねただけの事はある。
●石垣は、菩提寺である観音寺と同じ造り、おそらく娘婿である吉川氏の石工集団が携わっていたものと考えられる。
●イラストなどがあれば想像しやすい。
関連URL
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2024/01/14