城データ

城名:七曲城

別名:無し

標高:93m

比高:58m

築城年:不明

城主:不明

場所:広島県広島市安佐北区上深川町

北緯:東経:34.478323/132.557554

七曲城はここ

 

攻城記

七曲城全景。

三篠川が天然の堀の役割をしている。

高陽自動車学校の駐車場側面から登っていく。

道なりに進んでいく。

この頂上が曲輪であるが、急峻で攻めることが困難。

道が無くなったところが城の端っこ部分となる。

いきなりの堀切。

典型的な堀切。

堀から本丸部分を臨む。

畝状竪堀群があり見どころ満載。

沢山の竪堀があり絶対にこちら方面からは攻め込めさせないという意思を感じる。

いよいよ本丸に進む。

本丸部分。

本丸先端の土塁。

先ほどの下の部分を臨む。

本丸先端から南方面を臨む。

本丸は長大。

本丸の南先端部分。

二の丸方面であるが、大きな堀切で行く手を阻む。

一旦、本丸東側の帯曲輪を散策。

一部側面には石垣の跡が残っている。

アップ。

本丸と二の丸の間の堀切。

側面から二の丸に進む。

二の丸の先端部分。

先端部分からは景色も確認できる。

当時は眼下の様子も確認できたと思われる。

南先端部分から二の丸方面を臨む。

二の丸部分。

二の丸と本丸を分ける大きな堀切。

※二の丸方向から。

切岸もしっかりしている。

非常に造りがいい。

城にはあちらこちらに河原石がある。

石垣は注意深く確認すると、いろんなところに散見される。

城の西麓には田畑の跡が残っている。

 

吉川興経縁の場所

腹切石。

吉川興経居館跡。

 

位置関係

現在は消滅したが、横山城と七曲城はセットで機能していたと考えられる。

 

open-hinataより【七曲城】

 

 

余湖図【七曲城】

余湖図【横山城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』【七曲城】

 

城の概要

西流する三篠川は城跡のある丘陵に突き当たって,その流れを南に急転させており,城跡の東側は流れに侵触されて急峻となっている。

 

城跡の西側には深い谷が入り込んでいる。

 

城跡は南北二つの郭群からなり,北郭群は三つの郭を南に向けて階段状に配したもので,北側では鬼ケ城山から連なる尾根を大堀切で分断している。

 

また,この北郭群の東側には四か所の帯郭・小郭を付随させている。

 

北郭群の南には堀切を隔てて南郭群がある。

 

この南郭群は二つの郭を階段状に並べ,堀切のある北側を除く三方を三か所の帯郭で取り巻いている。

 

このように,本城郭は南北の郭群と自然地を組み合わせることによって,二重・三重の防御機能を生み出しており,精緻な郭構造をもつ点においては市域でも屈指の存在である。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

七曲城は石垣や畝状空堀群を残すことなど、三篠川筋の中では 最も完成度の高い城の一つなのだが、江戸末期の地誌『芸藩通志』 には「横山城七曲城並に上深川村にあり」と素っ気なく記すにすぎない。

 

城主名すら伝わらかったのは何故だろう。

 

本城の西方、中深川の院内城は牛尾遠江守幸清の居城と伝えており、三篠川の上流側に隣接す る狩留家の薬師堂は、享徳二年(一四五三)牛尾範光の建立される。

 

中世には狩留家は深川上分に属していいたから、牛尾氏は中深川から上深川一帯に勢力を有していたものと思われる。

 

これらのことから『横山城跡発掘調査報告』は、七曲城を牛尾氏に関わりの深い城と判断している。

 

牛尾幸清は尼子氏の家臣で、江戸初期に成立した軍記『陰徳太平記』によれば、天文九年(一五四〇)郡山合戦の時、尼子方についた武田信実を支援するため佐東の金山城に配置されるが、尼子軍敗退の報せを受けた信実は牛尾幸清と共に出雲に逃れたという。

 

深川一帯を支配していたと思われる牛尾氏と牛尾幸清、さらに七曲城との関係は確かめようがないが、武田氏滅亡の後も深川に住んでいた牛尾氏の子孫は、毛利軍に従って天正十四〜十五年(一五八六〜七)の島津征伐に加 わり戦死したという。

 

郡山合戦の際、毛利氏を支援する大内軍は海田に上陸し、中郡を経て吉田へ向かっているから、 大内軍は七曲城の麓を通過したことになる。

 

天正十七年(一五八九)広島城築城に着手した毛利輝元は、吉田と広島を結ぶ三篠川筋の道を整備する。

 

この結果、三篠川と小河原川の合流点を見下ろす七曲城は軍事的要衝としての重要性を一層増したに違いない。

 

さかのぼって天文十六年(一五四七)、毛利元就は吉川家当主興経を深川に隠居させ、元就の次男元春を吉川家後継として送り込む。

 

七曲城の南麓JR上深川駅付近にはこの時隠居させた興経の隠居所があり、三年後興経はここで殺害される。

 

ところで『芸藩通志』によれば、吉川興経は木宗山城を築いたが入城前に殺害されたとし、また 興経の家臣豊島主計の守る片山城の存在も記載している。

 

木宗山城は七曲城の南西二㎞にある標高四一三㍍の険しい山、片山城はその東麓の小丘にある。

 

七曲城は前述のように眼下に吉川興経の隠居所があり、この両城も視界に収める位置にある。

 

興経が城を築いたというのは信じがたい気がするが、いずれにしても七曲城には興経の動向を監視する役割もあったはずだ。

 

本城は毛利家臣の在番する城だったのかもしれない。

 

『広島の中世城館を歩く』より一部引用。

 

城の歴史

ところで三川下流域における室町時代後半から戦国期にかけての全般的な情勢は, 出雲の尼子氏,山口の大内氏の二大勢力による進出と、安佐北区祇園町の銀山城に拠る武田氏,吉田の郡山城に拠る毛利氏の勢力争いが中心となっている。

 

七曲城跡と横山城跡は前述のように城のあう方や出士遺物からみて,大永〜天文頃の城と推定される。

 

この時期の出来事として大永5〜7年頃に大内義興は毛利元就に深川上下200貫, 深川の南に位置する温品に300貫のほか久村70貫, 可部700貫を与えている。(「毛利家文書」251号)

 

しかし,実際には,尼子氏や武田氏の勢力下に属していた中深川の院内城には牛尾氏がいるほか,亀崎城には井尻氏,地蔵堂山城には久村氏など在地土豪がいて知行することは不可能であり,これらの地が実際に毛利氏の勢力下に入るのは天文10年(1542)に武田信実の居る銀山城の陥落によってである。

 

七曲城跡及び横山城跡の城主については伝承がなく,その手がかりを欠くが,三篠川下流域の当時の在地土豪のなかで牛尾氏の動向は注目される。上深川の東に隣接する狩留家の薬師堂は,享徳2年(1453)に牛尾範郷の建立と元亀2年(1571)に牛尾右京佐の再建を伝えている。

 

また中深川の院内城には天文10年まで牛尾遠江守幸清が居ることから,牛尾氏は上深川を中心として狩留家から中深川の一帯に勢力を持っていたことが知られるが,勢力の中心にある七曲城の存在は,牛尾氏と無関係に存在していたとは考え難く,牛尾氏とのかかわりを強く持っていると推定してよいであろう。

 

『横山城跡発掘調査報告』より一部引用

 

所感

●ここまで畝状竪堀や堀切が見事に残っている城は県内でも珍しい。

 

●城としては本丸と二の丸の後世であるが、各々に帯曲輪が多くある。

 

●本丸側面の帯曲輪には石垣の跡も残っており、周囲には崩れた石垣の残骸が残っている。

 

●城の東は三篠川で防いでおり、西は急峻で攻めにくい、北は何本もの竪堀で防いでおり鉄壁を誇る。

 

●ここまで素晴らしい城であるが、城主不明なのが残念。

 

●隣の横山城が室町時代後期となると当時ここを治めていた人物は誰なのだろうか?

 

●麓に吉川という苗字の家があったが気になる。

 

関連URL

【広島県】木の宗山城【広島市安佐北区上深川町】

参考URL

城郭放浪記(安芸七曲城)

財団法人広島市文化財団文化科学部文化財課(七曲城)

牛尾幸清(ウッキペディア)

open-hinata

 

参考文献

『横山城跡発掘調査報告』

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

公開日2022/06/25

 

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