城データ
城名:大可島城(おおがしまじょう)
別名:無し
標高:10m
比高:10m
築城年:康永元年・興国3年(1342)岡部出羽守によって築かれたと云われる
城主:岡部出羽守、桑原氏、足利直冬、村上亮康
場所:広島県福山市鞆町古城跡
北緯:東経:34.381764/133.383442
攻城記
現在は陸続きになっているが当時は島であった。
麓。
大可島城跡
1342(康永元)年四国伊予を拠点とする南朝方と備後一帯に勢力をもつ北朝足利方が燧灘で合戦となり大可島城にこもる南朝方は全滅しました。
その後、戦国時代に村上水軍の一族が大可島城を拠点に、海上交通の要所である鞆の浦一帯の海上権をにぎっていました。
慶長年間(1600年頃)鞆城を築いた時、陸続きとなり、現在ある南林山釈迦院円福寺は、真言宗でこの年代に建てられました。
中央のお寺のある丘陵地が大可城。
位置関係(当時の推定海岸線)
open-hinataより【大可島城】
余湖図【大可島城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
城跡の周辺は近世以降の干拓により陸地化したもので,中世には港町鞆の東端に浮かぶ島だったと考えられる。
現在円福寺境内及び墓地となっており,5段の郭が確認できる。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
大可島城跡(おおがしまじょうあと) 附 伝桑原一族墓地
ここは南北朝時代鞆争奪の古戦場で,現在は陸続きとなり円福寺が建てられているが,かつては島であり,そこに大可島城があった。
康永元年(1342年),伊予の南朝軍は西国に勢力をのばそうとして,新田義貞の弟脇屋義助を大将として迎えたが病死したため,北朝軍に伊予川之江城を攻められ苦境に立った。
南朝軍は金谷経氏を大将として土居,得能氏らが川之江に援助に向ったが,途中北朝側の備後勢と燧灘で遭遇し大合戦となり,折からの風で鞆方向に流された。
そこで鞆を攻撃し占領,大可島を詰城として拠点を構えた。
これに対して北朝側は鞆の小松寺に陣し,激戦十余日に及んだが,南朝軍は本拠川之江城危うしの報に,備後服部の桑原重信を残し伊予に引き返した。
北軍は桑原氏を滅ぼし鞆は再び北朝側に帰した。世にいう鞆合戦の城跡で,城地にある石塔は桑原一族の墓と伝えられている。
福山市のサイトより。
大可島城跡 福山市鞆町後地
航影島に向い合って、鞆港の防波堤のように位置した大可島にある中世の城跡。
海流の変化により江戸時代以前には陸続きとなっていた。
古くは「たいが島」とよば れたらしく、鎌倉時代の「とはずがたり」に「たいか島とて離れたる小島あり、遊女の世をのがれて、庵並べてすまひたるところなり」とみえる。
南北朝の動乱期、伊予では南朝方が優勢であったが、 康水元年(一三四二)に北朝方の細川頼春が川之江城(跡地は現愛媛県川之江市)を攻める事件が起こった。
伊予の南朝方は金谷経氏を大将として土居氏・得能氏らが救援に向かったが、細川氏の助力に向かう備後勢と海上で衝突し、 風の関係もあって逆に鞆を攻撃してこれを占領した。
この時南朝方が占拠したのが大可島城である。
伊予勢はやがて退去し、そのあとを桑原重信一族が守ったがまもなく落城した(「太平記」巻二二義助朝臣病死事付術軍事)。
貞和五年(一三四九)に足利直冬が中国探題として鞆に来住した際にもここを居城としたと伝え(柄記)、以後、鞆の要害とよばれた。
近世水野氏時代には、ここに鞆奉行の管掌する要害番所(遠見番所)が設置され、延宝年間(一六七三~八一)に時を告げる鐘が置かれたという(あくた川のまき)。
また、幕末 には、海防のため要害に大砲を据え、番所に望遠鏡を備えたと伝える(宿限郡誌)。
なお陸続きとなって「みちごえ」 の称でよばれた砂州上には江戸時代には遊郭が建並んでいた。
現在城跡は市の史跡に指定され、円福寺境内となっている。
『広島県の地名』より引用。
大可島城
港入口の北に突出した標高一〇mの小さな陸繋島に築かれた城で、もとは独立した島であった。
この島に城が築かれたのは南北朝動乱の時期と思われ、鎌倉時代末期の乾元 先年(一三〇二)に都を発ち、旅の道すがら見聞したことを記した中院源雅忠の女二条の『とはずがたり』によると、この島には鞆浦の遊女が世を逃れて庵を結んでいたことや、その遊女の長者のことなどが記されている。
康永元年に、北朝方の細川頼春の攻撃を受けていた伊予川之江城の救援に赴く途中の南朝方伊予衆は、途中の海上で備後の北朝方の阻止に会い、その合戦の最中に突風により備後の鞆へ吹き寄せられたため、備後の南朝方と語らい、 西国経営の拠点にしようとして鞆を占領し、大可島を詰城として拠点を構えた。
これに対して備後の北朝方が鞆の小松寺に陣して猛攻を加えたのと、当時、四国における南朝方の大将大館氏明の拠る伊予の世田城が北朝方の攻撃で危機に 瀕したので、籠城兵の大部分を占める伊予衆 が本国へ帰ってしまいまもなく城は陥落した という。
同時期に、因島や生口島にも南朝方伊予衆が進出しており、 あるいはこれらと気脈 通じるものであったかもしれない(『太平記 巻一二』『三吉鼓家文 書』)。
その後、貞和五年(正平四、一三四九)には、 足利尊氏の庶子で、そ の弟直義の養子となっ た足利直冬が約六か月在城したという。
この 時期は、いわゆる観応の擾乱の前夜であり、直冬は養父や味方の山陰・九州の豪族との連絡に有利なこの地にとどまっていたものと思われる。
時は移り、天正元年(一五七三)に織田信長によって京都を追われた足利義昭は、諸国を流浪ののち鞆に流れ着いて 毛利氏の鹿護を受けることになるが、その義昭が鞆滞留中、大可島は村上亮康が義昭警護のための本拠としていたという。
近世には、この場所に遠見番所が置かれ、鞆港出入りの船舶や沖を航行する船を監視していたという。
現在、城は円福寺の境内となり、当時の状況はわかり難いが、本堂前の一段 低い郭様の場所には、康永元年の合戦で南朝方として討死したと伝える備後の豪族の族桑原一族の墓という五輪塔数基がある。
また、本堂周辺を取り巻く平坦地は郭の跡と思われる。
『日本城郭大系』13より引用。
太平記 巻22
201 義助朝臣病死事付鞆軍事
一部
宮方の士卒是に機を挙て、大可島を攻城に拵へ、鞆の浦に充満して、武島や小豆島の御方を待処に、備後・備中・安芸・周防四箇国の将軍の勢、三千余騎にて押寄たり。宮方は大可島を後ろに当て、東西の宿へ舟を漕寄て、打てはあがり/\、荒手を入替て戦たり。将軍方は小松寺を陣に取て、浜面へ騎馬の兵を出し、懸合合揉合たり。互に戦屈して、十余日を経ける処に、伊予の土肥が城被責落。細河刑部大輔頼春は、大館左馬助氏明の被篭たる世田の城へ懸ると聞へければ、土居・得能以下の者共、同く死なば、我国にてこそ尸を曝さめとて、大可島を打棄て、伊予国に引返す。
城の歴史
康永元年・興国3年(1342):南朝の城としてこのころにはあったとされる。その後北朝に攻められて落城。
貞和5年(正平4)(1349): 足利直冬が約六か月在城したという。
天正元年(1573):この頃織田信長に追われた足利義昭が鞆の浦に流れ着き、毛利氏から鞆城を与えられる。
その時に義昭の警備として村上亮康の大可城を預けられる。
所感
●今でこそ陸続きであるが、当時は島であり、ここに南朝側の武将や足利直冬がいたと思うと感慨深い。
●城は現在寺になっておりどこまで遺構が当時のものかは不明。
●島の為、比高も高くなく、防備力があるとは考えにくい、瀬戸内海の見張りをする為の城か。
関連URL
鞆城にいた足利義昭の城。
村上氏と一緒に足利義昭を守っていた渡辺氏の城。
参考URL
22-5 脇屋義助の突然の死去により、瀬戸内の情勢は混沌状態に
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/05/08