城データ
城名:青陰城
別名:青景城、青影城
標高:275m
比高:180m
築城年:南北朝時代
城主:村上氏、今岡氏?、救井太郎左衛門尉義親(村上氏家臣)
場所:広島県尾道市因島中庄町
北緯:東経:34.311766/133.166547
攻城記
当時はかなり奥まで海であった。
まずは因島水軍城を散策。
さあ攻城開始。
山頂に進んでいく。
やっと山頂(二之丸)に到着。
山頂からの絶景。
本丸に到着。
奥はこんな感じ。
青影城跡
標高277mの青影山の頂にあり、元弘年間村上義弘が居城してから慶長元年第10代村上吉亮が世を終わるまで、約260年間村上家累代の城であった。
当時をしのぶものとして、本丸跡と二の丸跡の平坦地、それをつなぐ通路が一段低くなって頂上を形成、本丸の下に武者走り、東に三の丸の城門、石風呂、井戸等の跡があり、昭和32年9月広島県史跡として指定された。
余湖図【青陰城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【青陰城】
拡大図。
城の概要
二段からなる本丸(西側郭群),二段からなる二の丸(東側郭群),その間をつなぐ通路状の郭からなる。
通路状の郭は登山道整備のため一部改変されているようである。
東側郭群から北東下に延びる尾根には不明瞭な堀切,さらにその下には三段の小郭が確認できる。
城跡の南東下の鞍部には堀切があり(登山道で一部壊)”二の木戸”とよばれている。
本城跡は,因島村上氏の本拠城と伝えられており,長崎城(因島)→余崎城(向島)青木城(因島)→青陰城と変遷したと伝えられる。後には村上家臣救井氏の居城という。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
青陰城跡 因島市中庄町青陰
中庄町南方、田熊町境にある青影山(城山とも称し標高二 七五メートル)にある。
県指定史跡。暦応四年(一三四一)三月二八日付の室町幕府引付頭人奉書案(浄土寺文書)に、生口島(現豊田郡)の甲乙人らが広沢五郎と語らい浄土寺(現尾道市)領因島に討入ったとあり、この時彼らによって城郭 が築かれたといわれるが、この寺領乱入が青陰城築城に結び付くかどうかは不詳。
しかし南北朝期には瀬戸内地方の軍事・交通の要衝として、因島は南朝方と北朝方との争奪の地となるが、中庄は開発も早く島の中心地であったため、この時期には築城されていたと推定される。
「芸藩通志」は村上義弘を初代城主とし、村上氏数代の城と伝えるが、村上氏支配は海賊衆の組織化が進む室町後期と考えられる。
近世初頭に毛利氏に従って、村上氏が 因島を離れたのち、廃城となったものであろう。
『広島県の地名』より引用。
青陰城
因島を南北に分断するように、島のほぼ中央部を東方の標高三二五mの峰を最高峰として、西へ向かって高さ二〇〇mばかりの山々が西岸まで続き、海に落ち込んでいる。
これらの山々は、東方では重畳して、深い森林を形作り、西に行くほど山々の連なりは一列となる。
その西方の小峰の一つに青陰城がある。 その山頂は島の南北をほとんど見渡せる眺望のよい地で、島を掌握する拠点としては格好の地である。
この青陰山を挾むような形で、東に風呂山、西に山伏が続いているが、この二つの山にも、青陰城に関連する施設があったものと想像される。
青陰山と山伏山の間と風呂山の東麓には、南の田熊町や土生町から北の中庄町へ抜ける山路が通っている。
『芸藩通志』は、村上義弘を初代の城主とし、その没後、今岡通任に押領されたが、義弘の孫村上義顕が宮地大炊助明光と共に奪い返し、当城には義顕の次男吉豊を置いたと記している。
吉豊のあとは吉資。義光と続き、弘治元年(一五五五)の厳島合戦に毛利方として功のあった吉光とは「義光」 のことであるとしている。
しかし、村上海賊衆 が瀬戸内海で水軍として活動を始めるのは、室町期も後期のことであり、村上義弘在世の貞治四年(正平二十、 一三六五)頃には、のちの能島・ 来島・因島の三島村上氏のような、海賊衆の組織化はみられない。
貞和五年(正平四、一三四九)の『東寺百合文書』によると、東寺領であった伊予の弓削島 に東寺の使いが尾道から渡海するにあたって、身の安全を保障してもらうために周辺の海賊衆に銭貨を与えているが、その中に出てくる能島村上氏の前身とみられる野島氏は、他の群立する海賊衆の一人としてしかみられていない。
また、義弘の生きていた時代は、安芸の小早川氏が芸予の島々に南下し、その勢力を拡大している時期であり、小早川氏を信頼した幕府は、東寺の荘園である 伊予弓削島(因島の南隣)の所務代官職を康永年(興国三、一三四二)に約束し、 観応二年(正平六、一三五一)には因島荘の地頭職を与えている。
北畠親房の子孫という村上師清(義顕)の三子が三島村上氏の祖であるとするのも疑問であるが、伝承・系図によれば、三島の村上氏が勢力を持つようにな ったのは、先述のとおり海賊衆の組織化が進んだ室町期も後期のことである。
したがって、『芸藩通志』にいう伝承が生まれたのは、因島村上氏が因島に強固な地盤を築いたのちのことと思われる。
この島に城郭を構えて争乱の時に備える必要が生まれてくるのは南北朝期と考えられ、康永二年、青陰山の北麓から東に広がる中庄町(かつては深い入江であったと思われる)の東南端の堂崎山城で、南北両軍の激しい戦いが繰り広 げられており、あるいはこの戦いに関連して青陰城が築かれたのではないかと 推察される。
当時の北朝軍の主力は安芸の小早川氏で、同氏はこのような機会を通じて、 芸予叢島にその勢力を拡大していくのであるが、これに対する南朝軍は伊予衆が主力であり、因島を東西に走る山並の北東端に堂崎山城を置き、西端に青陰城を築いて南下する北朝勢力を阻止し、さらには北上しようとしたのではないか。
現在、青陰城の南北両山麓に館跡があり、北麓のものは因島を制圧した村上氏のものといい、南麓のものは「今岡氏屋敷跡」とのみ伝えら る。
今岡氏は、南北朝期に活躍した伊予衆であり、青陰城の築城とかかわりが あるように思える。
その後、村上氏が因島を支配下に収め、長崎・青木・余崎各城との見張・連絡の場所として用いていたと思われるが、因島村上氏が小規模ながらも戦国大名としての性格を持つようになると、その本城的役割を果たすようになったと考えられる。
現存する郭は、山伏山との間を掘り切った三の丸を西端に、東へ四段の郭が 一列に並んだ小規模な構造で、東端は風呂山との間を掘り切り、二の木戸(城門跡ともいう)を構え、そこから北麓への道をたどると、二段からなる屋敷跡があり、その外側に一の木戸があったという。
また、二の木戸を南へ下ると、 今岡氏屋敷跡と伝えられる削平地があるが、崩壊がはなはだしい。
この城の北麓には大手・裏木戸・陣屋・陣貝などの地名を伝え、城の本丸跡からは「開元通宝」が出土した。
さらに中庄の集落を挟んで城の北の丘には、因島村上氏の 菩提寺である金蓮寺があり、村上氏歴代の墓石のほか、数々のゆかりの品々を伝えている。
『日本城郭大系』13より引用。
城の歴史
暦応四年(1341):この頃築城か?詳細不明。
弘治元年(1555):厳島合戦に毛利方に味方をする。
当時の海岸線
城主家系図
城主(一族)石高
村上掃部(武吉もしくは元吉)
3807.742石 長門 大津
村上三郎兵衛(景親)
627.268石
【内訳】
228.521石 周防 大島
129.600石 周防 熊毛
034.019石 周防 玖珂
235.128石 長門 大津
所感
●城の造りは簡素であるが、瀬戸内海を見渡せる絶好の場所であり、ここから船を往来を監視していたと思われる。
●曲輪は二か所に分かれており、その間は細い尾根道で繋がっている。
●実際に大きく改変したのは一時的に占領した今岡氏かもしれない。
関連URL
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/05/01