城データ
城名:五品嶽城
別名:五本竹城、世直城
標高:488m
比高:170m
築城年:大永・享禄年間(1521年〜1532年)頃に宮景友によって築かれたと云われる 。
城主:宮氏、佐波広忠、長尾一勝
場所:広島県庄原市東城町川西
北緯:東経:34.895779/133.267161
攻城記
五品嶽城全景。
看板があるので分かりやすい。
世直し神社がある。
本格的に登り始める。
カヤの平。
広島県史跡 五品嶽城跡
この城跡は、戦国時代から江戸時代初頭にかけての山城で、五本竹城・世直城ともいわれた。
築城年代は明らかではないが、宮氏が築城し、のち大富山城を築いて西に移るまで、宮氏の本拠とされた。
以来、宮氏はこの城を東城、大富山城を西城と呼んだ。宮氏が毛利氏の命で出雲に転出したあと、天正19年(1591)には石見国から佐波越後守広忠が東城城主として赴任した。
佐波氏は菩提寺を川東の千手寺に合併し、寺領を寄進している。
しかし佐波氏も慶長5年(1600)の関が原の戦いののちは毛利氏に従って萩に移った。
毛利氏に代わって芸備の太守となった福島正則は、その三家老のひとり長尾隼人正一勝を東城の城主に任命し、備中・伯耆の国境守備にあたらせた。
長尾氏は帝釈の永明寺に鉄製の鰐口を、川西の法恩寺には大般若経600巻を寄進している。
しかし元和元年(1619)には福島正則も広島城の無断改築を理由に改易され、長尾氏も津山に去って、この城は廃城となった。
この城は東城の町並みを東眼下に見下せる通称城山(標高490m、比高170m)に築かれたもので、西側に続く山並みと郭部を掘り切って深さ約15mの堀切としている。
郭群は頂部の常の丸、太鼓の平を中心に北東方向にのびる尾根の上にケヤキが平、カヤの平とほぼ連続して設けられているが、山麓にも杉の平、物見が丸などの郭がみられる。
この城跡は、中世遺構の上に近世初頭の技術が加えられている点に特色がある。近世初頭以降は完全に近く保存されており、学術的に貴重である。
井戸跡。
石垣跡か。
ケヤキが平。
太鼓の平。
石垣跡。
河原石もある。
常の丸(本丸)
井戸跡。
櫓台部分。
本丸石垣
瓦片。
本丸方向を見上げる。
下城していく。
東城の街並み。
杉の平。
余湖図【五品嶽城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【五品嶽城】
拡大図。
城の概要
東城の町並みを眼下に見下ろす通称城山に築かれている。最高所の1郭は「常の丸」と呼ばれ,南東端には桝形がある。
1郭西端には周囲を石垣で固めた高さ3mの天守台があり,その東下には石積み井戸がある。
1郭の西側尾根続とは比高15mの切岸で隔て,さらに小規模な5条の堀切を設ける。
この堀切には瓦が散らばっており,17世紀初頭に瓦葺き建物があったことが知られる。
1郭の北側斜面には畝状空堀群がある。2郭は北側に土塁を持ち,中ほどには築山と池がある。
3郭は「太鼓の平」と呼ばれ,ここにも北側に土塁がある。郭群はここから北と東に別れ,この二つの尾根に挟まれた谷頭には砂防提状の石垣を持つ2段の郭がある。
4郭は「ケヤキが平」と呼ばれ,北西側に土塁がある。
5郭は「カヤの平」と呼ばれ,北側の土塁中央に北西下の郭への虎口が開く。
5郭には石積み井戸や礎石などが見られる。
6郭は「杉の平」,7の尾根は「物見が丸」と呼ばれる。
城主は宮氏,1591(天正19)年以後は佐波氏,1600(慶長5)年以後は福島家臣長尾氏と伝える。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
五品嶽城跡 東城町川西
標高四八〇メートルの五品鉄に築かれた要害堅園な山城跡。「備後古城記」などには「五本竹城」と記される が、「国郡志下調書出帳」などは五品嶽城と記す。
戦国時代末期、この地方に勢力を振るったのは久代の比田山城を本拠とした宮氏(久代氏)であった。
「久代記」(伊藤家蔵)によれば六代景友の時代に川西に五本竹城を築 き、享禄年間(一五二八~三二)に毛利氏配下に属したといわれ、七代高盛のとき天文二年(一五三三)入江(現西城町)に大富山城を築いて本拠を移した後は、家臣渡辺七郎左衛門尉に当城を守らせた。
以後、大富山城を西城、五本竹城を東城とよんだという。
天正一八年(一五九〇)の宮氏の国替によって奴可郡の支配は二分され、西城には天野氏が入り、東城には翌年石見国佐波(現島根県邑智郡邑智町)の唐樋城主佐波越後守広忠 が入った。
佐波氏時代は花谷城とよばれていたらしい(備後古城記)。その後、関ヶ原の戦ののち佐波氏は毛利氏とともに萩(現山口県萩市)に去り、福島正則が入部すると、 福島三家老のひとり長尾隼人正一勝が城主となった。
長尾氏時代は世直城と称していた(法恩寺蔵大般若経経慣蓋裏書)。長尾氏は宮氏時代に渡辺氏が伊勢国から勧請して城山鎮守社とした豊受大神宮をも世直神社と改称。
元和五年(一六一九)浅野氏の時代に廃城となる。
遺構はほぼ完全に残っており、典型的な戦国の山城の姿を伝えるものとして重要視されている。
山頂には約八〇〇平方メートルの本丸(詰の平)が築かれ、本丸の搦手 (西方向)には石塁が積まれ、その背後の急崖を下ったところに尾根を切落した深い大空堀がある。
大手は本丸から北東方向に延びる尾根上に六段の郭群がつくられ、本丸 から数えて三段目の郭から東南方向に分岐して五段の郭群が設けられる。
この両郭群の間の谷に広い平地(カヤの平)がつくられ、井戸も掘られている。
東南方向に延びる郭群のさらに下方にも八段の小郭群が築かれ、その南側 にこの小郭群と平行して物見が丸の三段の郭群がある。
ほかに東北方向の世直神社の境内も十分に郭として利用 でき、それぞれの郭はたとえば郭の端に土塁を築くなど、 戦時における防衛機能をよく考えて工夫されている。
郭の名称が残っているのは前記のほか太鼓の平・ケヤキが平・杉の平など。
井戸は本丸にもあった。戦時には要塞となるが、平時には物見番を交代で置く程度であったと思われ、城主の居館や家臣の屋敷は、のち浅野氏時代に東城家老浅野孫左衛門屋敷があった現在の役場の位置にあったと考えられる。
『広島県の地名』より引用。
五品嶽城
この城は、東城盆地を眼下に見下ろす西側中央部の山頂に本丸を置き、東側に広がる平野部に向かって尾根上に三〇段に近い郭を構築している。
この城山全体は、廃城後伐採などの手が入らず、準原生林として植物学上でも重要視さ れていることもあって遺構の保存も比較的良い。
戦国時代、この地方で勢力を振るったのは、当城の東南約四㎞にある久代の比田山城を本拠とした宮氏であった。
『久代記』によれば第六代景友の 時代になって川西に五品嶽城を築いたといわれ、第七代高盛に至って大いに勢力を伸ばし、天文二年(一五三三)、西進して西城町入江に大富山城を築いて本 拠を移し、五品嶽城は以後、家臣の渡辺七郎左衛門尉に守らせた。
以後、大富山城を西城といい、当城を東城と呼んだという。
安芸・備後の国人衆がそうであったように、宮氏も周辺の大勢力に従って去就常ならぬものがあった。
すなわち、山名・大内・尼子・毛利氏の間を時代と状況によって泳ぎ、やがて毛利氏が国人衆のリーダー的存在から急速に戦国大 名へと成長するに及んで、その輩下に属するようになる。
毛利輝元、豊臣秀吉の朝鮮出兵にあたり、その軍役負担のため、家臣団の知行高を調査したが、十一代広尚は負担を恐れて虚偽の報告をしたため、輝元の逆鈉に触れ、天正十八年(一五九〇)、倍青国日野城主または出雲国塩谷)であった天野新兵衛尉元嘉(四千余石)と国替になったという。
そのため、支城の五品嶽城には、翌年、佐波越後守広忠が石見国佐波の唐樋城から入っている。
その後、関ヶ原の戦で毛利氏が防長二国に減封され、福島正則が芸備四十九万八千石の太守として赴任してきたことにより、福島三家老のひとり長尾隼人正一勝が当城の城主として任命された。
現存の遺構は、山頂に二三m×三五mの本丸を設け、北側尾根上に続く郭群と途中で東側に延びる郭群とに分かれ、さらに下って、枝尾根ごとに南側にも物見が丸をはじめとする郭群で固めている。
郭の名称が残っているのは、本丸のほかに太鼓の平・カヤの平・ケヤキが平などの城の中核にあたるものと、東側中腹の杉の平、南の物見が丸だけであるが、名称の残っていないそれぞれの郭にも工夫が凝らされ、城の機能が充分に考えられている。
まず、本丸は周囲を五m前後削り、一部石垣を築いており、前面には空堀と土塁が残っている。
この本丸を三方から囲んで太鼓の平とし、本丸へは現在、 南側に階段がついている。
背面の搦手は、北西へ延びる尾根のあたりで巾着の 首を締めたように両側から谷が入るのを切り落として深い空堀としている。
さらに本丸に接して下まわりで幅一〇・五m×長さ二三m、高さ三mの石垣を築 いて石塁としている。
また、本丸北側斜面には四本の竪堀をおろして万全を期 しており、築城者もこの北側の防備にもっとも神経を使ったことがうかがわれ る。
このことは、大鼓の平から北側に延びるケヤキが平をはじめとする郭群においてもすべて西側に土塁を築いていることからも明らかである。
なお、この本丸背後の大空堀の周辺や太鼓の平の周囲に岩塊が散乱し、瓦も出土している ことから、この石垣が創建当初のものかどうかは疑問であるが、きわめて堅固な造りだったと思われる。
石垣はその他、太鼓の平の東側や中腹にも築かれている。
北側に延びる郭群が、ほぼ方形の面取りをし、西側に現高一・五~三mの土塁をめぐらした造りであるのに対して、東側に延びる郭群は、尾根線をそのまま階段状に切って整地した半月形ないし三日月形のブランを呈し、やや簡素な 造作である。
しかし、地形的にみて、それぞれの郭は充分その機能を発揮しうる独立性と空間をもっている。
たとえば杉の平とその一段上の郭とは、比高が 二五mもあり、面積も約一〇〇〇~八〇〇㎡がある。
しかも、本丸南側は急崖となっているため、この東側郭群を突破しないと本丸へは向かえないのである。
そして北と東の郭群に挟まれた谷の奥にカヤの平があり、ここには水場として 井戸がある。この井戸は内径一m、深さ二・七mあるが、三〇m大の礫を円形積み上げ、底は埋まっているが、しっかりしている。
現在、この城山へは、 北東の館町から世直神社(金比羅さん)の境内を通って登るのが一番楽な道筋であるが、地形と周囲の防備の郭配置からみて、南側の物見が丸を中心とする三本の尾根に挟まれた谷筋のいずれかに大手道があったものと推定される。
東城町は現在人口約一万三千人を数えるが、その大部分がこの城下集中しており、盆地のあちこちに当時の由緒や地名などが残っている。
当城の北向かいの山麓で、国鉄芸備線東城駅の裏手にある千手寺は、もと山号を吉祥山と称していたが、宮氏が追われ、佐波越後守広忠が城主となると、佐波家の菩提寺花谷山大龍寺を石見国から移し、合併して花谷山千手寺とした。
この寺には、 佐波氏が石見から移した「大般若経」六百巻(応安-康応元年〈一三六八―八 〉の間に印刷)のうち三百六十九巻が経櫃と共に現存しており、広忠が千手寺に送った『佐波越後守広忠文書』と共に町指定文化財となっている。
また、 この寺には福島藩時代の城主長尾隼人の供養塔がある。
これは子の勝行が元和 五年(一六一九)に建立した五輪塔で、形もよく、大きいので、広く知られてい る。
長尾隼人は、法恩寺を祈願所として「大般若経」を入手し、法要を行なっ たが、帝釈永明寺には慶長十年(一六〇五)鉄製陽鋳銘のある鱷口を寄進してい る。
現在も館町・上市・市頭などの地名が残り、城下町の名残を留めている。
元和五年六月二日、広島城無断修築を口実に福島氏が改易させられたのち、 宮氏以来受け継がれた五品嶽城も廃された。
『日本城郭大系』13より引用。
城の歴史
大永・享禄年間(1521〜32)頃:宮景友によって築かれたと云われる 。
天文2年(1533):宮高盛が西城の大富山城を築き移動、五品嶽城には家臣の渡辺七郎左衛門尉に守らせた。
天正18年(1590):宮広尚が改易される。
天正19年(1591):佐波広忠が入城する。
慶長5年(1600):関ケ原の戦いで佐波氏が萩に転封して、福島家臣の長尾一勝が入城する。
城主家系図
景友1代限りの城。
城主(一族)石高
恐らく改易後の所領だと思われる。
所感
●宮氏が築城した当時は山頂付近の山城だった可能性が高いが、長尾氏時代に現在のような形になったのではないか。
●石垣、井戸跡など見どころ満載で、じっくり時間をかけてみて回りたい山城。
●宮氏は本城を大富山城にしたが、大富山城よりも完成度が高く、素晴らしい城である。
関連URL
後の本城となる大富山城。
佐波広忠が元いた城。
参考URL
五品嶽城 -備後の城ー
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/04/30