城データ
城名:青掛山城
別名:青影城、青嶽山城、青樹山城、赤川城、片山城、三根の城
標高:550m
比高:250m
築城年:応永15年(1408)
城主:赤川氏(戦国時代では赤川左京亮・赤川十郎左衛門之秀等)
場所:広島県庄原市峰田町
北緯:東経:34.811245/133.061486
攻城記
山頂部分。
青影城の由来
其の昔、赤川氏は応永15年(室町時代の初期 1408年)将軍足利義満公の命により、下野国那須郡佐々山城より転国し、この青嶽山に築城した。
その何代目かに毛利氏の家臣となり、偶々戦国時代に入り、左京亮・十郎左衛門之秀等の豪傑が出て、毛利の為に各地で転戦し戦功を立て慶長5年(関ヶ原合戦1600年)の頃まで在城し、毛利氏が山口県萩に移り(1601年)廃城となった。
青嶽山は別名片山城とも言う。(備後の国古城記、其の他による)
昭和56年3月 庄原市観光協会
電波塔が建っており、遺構は破壊されている。
どこまで残っているかは不明。
眺望。
青影城全景。
余湖図【青影城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【青掛山城】
拡大図。
城の概要
テレビの中継所が建設されてかなり破壊されている。尾根上に複数の郭が設けられていたものと思われる。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
城主赤川氏について
「芸藩通志」は「赤川十郎左衛門元秀、所居」と記し「備後古城記」には「赤川左衛門一族十郎左衛門尉、天文9年」とある。
天文9年=1540
「西備名区」峰村の条には赤川元秀が毛利氏の家臣として活躍した模様を紹介する。
赤川氏は備後国守護土肥実平から出た一族で、筑前守政忠のとき信濃国赤川に住み赤川氏を称したという。
忠政のとき嫡子義重とともに毛利時親に従い安芸吉田に下り、代々毛利氏に仕えた。
大永3年(1523)7月25日の福原広俊外14名の連署状によると、赤川十郎左衛門就秀は毛利元就の本家相続を要請する重臣の15名のうちに加わっている。
また就秀は尼子氏のもとに人質として派遣されたこともあり、尼子、毛利の争いには大いに活躍。国司に住し、国司祇園社には就秀の子元秀の名を記す永禄11年(1568)の棟板が残る。
峰村は中世信敷庄のうちで、早くから地毗庄の地頭山内氏の勢力下にあったが、天文22年(1553)には毛利氏の支配下に入った。
その結果毛利氏のこの地進出の一つとして赤川十郎左衛門元秀がこの地に知行を賜り、青影城主となった可能性も否定できない。
赤川元秀(十郎左衛門)
天文10年(1541):吉田郡山城の戦いに参加。
天文12年(1543):第一次月山富田城の戦いに参加。
天文24年(1555):安芸国矢野の戦いなどで武功を立て、毛利元就から感状を与えられる。
『萩藩閥閲録巻32-10 11 12』
永禄11年(1568):大友氏攻めでは陣奉行を命じられる。
『萩藩閥閲録巻32-32』
元亀3年(1572):毛利氏掟では年寄衆の一人として掟を確認している。
『毛利家文書404』
天正8年(1580):には備後国福山城を守備し、400貫の給地宛行を毛利輝元から約束された。
『萩藩閥閲録巻32-7』
城の歴史
古文書等ではこの城に関しての記録はまだ見つかっていない。
赤川氏が城主ということは、赤川氏が毛利氏の家臣という視点から考えると、天文22年(1553)に山内氏が毛利に属した以降に築城された可能性がある。
しかし、看板では赤川氏は応永15年(室町時代の初期 1408年)将軍足利義満公の命により、下野国那須郡佐々山城より転国し、この青嶽山に築城した。とある。
代々の当主の中には十郎左衛門を名乗った者も多くおり、婚姻関係も近隣の国衆と交わっていることから赤川氏が室町時代にこの地にいたことも否定できない。
城主家系図
城主(一族)石高
赤川十郎左衛門(元秀)
48.446石 安芸 佐西
所感
●現在は電波塔も建っており殆どの遺構は消滅していると思われる。
●近隣には茶臼山城と城もあり、当時は連携していると思われる。
●山内氏の所領の中にある城として、毛利氏の有力国衆の在地性の剥奪が考えられる。
※山内氏の所領である本郷も後世に平賀氏のものになっており、細かく分割することにより一円支配を妨げているとも考えらる。
関連URL
赤川氏の城と云われている。
参考URL
参考文献
『庄原市の歴史』
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/04/03