城データ
城名:勝山城
別名:無し
標高:270m
比高:100m
築城年:戦国時代
城主:粟屋隆信、粟屋五郎衛門?、三吉豊後守 三吉新四郎
場所:広島県三次市粟屋町
北緯:東経:34.772998/132.808000
攻城記
勝山城全景。
この地蔵の脇から直登していく。
直登あるのみ。
とにかく曲輪まで直登、途中竪堀もある。
上から竪堀を見る。
もうすぐ曲輪に着く。
土塁跡。
最初の曲輪であるが、藪化で見にくい。
石垣発見。
石垣がこの城の見どころ。
第三曲輪も藪化が酷い。
曲輪の石垣。
しかし第三曲輪は石垣が素晴らしく圧巻される。
第三曲輪にある井戸跡。
第三曲輪の虎口らしいがよく分からない。
第二曲輪。
第二曲輪にある社。
本丸跡。
本丸奥の土塁。
麓に降りて加井妻城を臨む。
位置関係
open-hinataより【勝山城】
余湖図【勝山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【勝山城】
拡大図。
城の概要
郭は全体に方形を志向している。1郭は背後(北側)に土塁があり、西には3郭につながる土塁状の通路を設けている。
3郭には北と西に土塁を設けており、北東隅には井戸が残る。北側の土塁は中央部が開口しており、虎口となっている。
1郭の東側にも土塁で北・東を囲んだ小郭が配されている。北・南西・東に延びる尾根筋上に堀切を設け、城域を画している。
城主は三吉氏、またその後粟屋氏の名がみえる
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
勝山城
勝山城は、北から延びてきた丘陵上に、階段式に郭を配置した戦国時代の山 城で、三次市畠敷町の比叡尾山城を本拠とする三吉氏の支城の一つである。
この城の直下で、生田川が可愛川に合流して濠の役割をなしている。
対岸には、三吉氏の支城で、青屋入道友梅のいた青屋城に比定されている加井妻城がある。
この加井妻城をめぐって三吉氏は大永三年に石見国出羽城主高橋大九郎久光と争い、高橋方は同城を陥落させたが、青屋方は不意を突いて高橋父子を 討ち取ったため、高橋方は敗走した。
高橋方は姻戚である毛利元就の加勢によって再び攻撃してきたが、落城寸前に元就が大内方であった東広島市西条町の 鏡山城攻撃に尼子方として加わることになり、三吉氏との間に和議が成った。
三吉氏は、その後、青屋城(加井妻城)が防備に弱いこともあって、代わりに 対岸に勝山城を築いて、交通・軍事上の要地であるこの地域を確保したようである。
なお、勝山城の東側の丘陵上には、出城の茶臼城があったと伝えられており、西側の丘陵にも出城があったとみられる。
勝山城の城主三吉新兵衛隆信は、右兵衛太夫久高の次男で、兄政高が早世し たため、政高の嫡子保高(致高)を補佐していたが、保高は成長するに及び隆信の力が大きくなるのを恐れ、天文年間(一五三二~五五)にこれを殺し、粟屋五郎左衛門を城主としたという(『西備名区』)。
勝山城の本丸は、五〇m×三〇mの規模で、北側を一段高くして石垣を築き、 土塁を設けている。
二の丸は本丸から七m下って三六m×二一mの規模で、東側に本丸から下る通路を設けている。
三の丸は二の丸の西に一段下げて、周囲 を石垣としており、東北隅に井戸がある。
なお、北側と西側には六ー七mの土 塁をめぐらし、本丸の西南隅付近から北側の土塁上に道を取り付けている。
三の丸から南には、小郭三つと、西側に土塁を設けた南郭を配し、東・西・ 南の三方に五本の堅堀がある。
二の丸の東には北側と東側に石垣の土塁を持っ た小郭を設け、その東に二本の堀切と幅約五mの竪堀を南麓まで設けている。
本丸の背後は、丘陵の鞍部を利用して、数本の堀切と竪堀・土橋を設けて防備 を厳重にしているほか、退路を確保している。
『日本城郭大系』13より引用。
城の歴史
伝承によると、大永3年(1523)年頃に高橋氏が隣の加井妻城を攻めており、和睦後に城の脆弱な点からこの勝山城を築いたとされる。
城主は粟屋(三吉)隆信で、三吉氏の重要人物として登場する。
天部17年(1548);坪内宗五郎とやり取りをした書状。
粟屋隆信書状
杵築参詣宿之事、於比叡美(比叡尾山城)被申談之姿、於此方不可有相違 候、委細河面修理(高慶)進可申候、恐々謹言、
(天文十七年頃力) 七月十六日 隆信(花押)
坪内宗五郎殿
進之候
(坪内家文書、大社町史史料編)
『三次市史第2巻』より
城主家系図
一説には五郎右衛門も城主だったとの言い伝えあり。
粟屋隆信 享禄4年(1531)~天正10年(1582)若しくは天正19年(1591)
粟屋刑部少輔隆信または、三吉新兵衛隆信とも呼ばれる、戦国時代後期~安土桃山時代の高田郡粟屋町勝山城主。
兄の三吉隆亮より、息子三吉安房守広高の後見人を任されていた。
武術は素より硬骨練直な武人であった為、甥、広高に厳格な指導をし、家臣の武士に対しても厳重な態度をとっていた。
故に、周りの家臣に専横な態度だと思われ、城中でもいろいろ取沙汰されてします。その為隆信は、その不満により最後には註殺されてしまうのである。
そうした事で、その霊を鎮める為、広高により三吉聖霊隆信を、当社の境内に神社を祭る事に成ったのである。
以後、八幡大明神の守護神となり現在も当社を守護される。
若宮八幡神社にある粟屋神社の説明文より
三吉豊後守(1532~1587)
父親の三郎右衛門が討死の時9歳、初めは新四郎または松之助と名乗る。
豊後守を名乗った頃に沼之城の城主となる、粟屋隆信の跡に城番を仰せられ勝山城に入城する。
天正15年(1587) 55歳で病死
父親の三郎右衛門が討死は天文9年(1540)この時三吉豊後守は9歳 となると生まれたのは天文元年(1532)と推測。
天正15年(1587)に亡くなっていると粟屋隆信が天正19年(1591)に亡くなった説は成立しなくなる。
※三吉豊後守は粟屋隆信の代わりに城番を命じられるので粟屋隆信は1587年以前には亡くなっていないとおかしくなる
天正10年(1582年)説もありそちらの方が整合性がある。
三吉新四郎
家督相続の後しばらくして勝山城から下城 志和地村の内田の土居へ移る。
粟屋隆信縁の地
大鳴戸神社
粟屋町上村にある大鳴戸神社 天文6年(1537)に三吉久高が重造するとある。
隆信が勧請したのではなさそうであるが、主神像を永禄9年(1556)寄進している。
粟屋の龍興寺跡の墓
※龍興寺は、山号法霊山といい、臨済宗の寺。龍興寺は三吉隆信の建立でその香華院であったが明治18年(1896年)に廃寺となった。
粟屋にある粟屋隆信の墓(龍興寺跡にある)
龍興寺住職墓。
岩屋寺公園内の墓
岩屋寺付近にあるもう一つの墓は、自然石で小さく、『双三郡誌』には「粟屋隆述墓」として「畠敷にあり、高田郡勝山城主なり、比叡尾山城主広高に殺され此地に葬る」と記述されている。地元の人間がその霊をおそれ供養塔として祀ったものと思われる。
若宮八幡神社 (三次市十日市)内の粟屋神社
粟屋(三吉)刑部丞隆信(あわやぎょうぶのしょうたかのぶ)公と、相殿に三吉式部少輔(しきぶのしょう)藤原隆亮(ふじわらたかすけ)公(上記三吉隆亮の神霊)を祀る。旧称粟屋大明神。
粟屋隆信の謎
隆信は甥に殺されたことは伝承として残っているが、諸々の伝承、家系図などで家系図が違い、また一般的に知られている人物の名前が出てこない場合もある。
同一人物で名前が違う場合もあると思われるが、兄弟を親子としたり混乱が見られる。
伝承や書物からの家系図復元を試みる。
高田郡村々寺社古城山由来記
粟屋村の項
【大意】
粟屋村
一御検地慶長六 村上彦右衛門 浅野庄右衛門
平野次左衛門
但其後寛永五年地詰被仰附候
上ノ村ノ内
一八幡社 天文六年
願主 三次藤原朝臣 父 久高公
子 政高公
中ノ村ノ内
本地大日(如来)
一旭大明神 願主 三次新兵衛隆信公
本地薬師(如来)
一牛頭天王 願主 右同人
隆信公ハ当村勝山之城主ニ御座候 三次右兵衛太夫
久高公之次男 政高之弟也 元来久隆公御居城 三次郡
畠敷村 干海老ヶ城 久高政高保高 此保高御若年故 隆信 粟屋之城ニ家人を残し置 干被海老ヶ城江御引越此時 毛利尼子度々合戦有 保高公御成人後 粟屋村御帰城 然共御心の侭ニ政高も被成かたく 諸事隆信ノ御差図上ニ而 とかく御中不宜由ニて 隆信ヲ干海老ヶ城へ御招請二門ニて打果 夫より隆信荒神となり 畠敷粟屋之内夜々御通りにて相働侭故 同郡上り村ひくま山へ御引取只今三次之城にて御座候 且夫より保高萩へ御下之節も思召之侭ならす候故 法躰被成 三次同済と申候 隆信公ヲ当村之者共八幡之本社小宮立置申候 同済此宮江御参御調茂済され御誤被成候よし 老共申伝へ 隆信御子なく故跡続不申候
大平内
一細田大明神 木地土屋観音 但隆信之御建立と申伝
大平内
一嶋大明神 右同断
一禅宗 但 隆信公 龍興寺
御菩提所
(其後絶破及候二付 只今御郡中より
上 帰花抔之手伝有
一真宗 船木村専教寺
末寺也 専德寺
一 同宗 三次十日市
覚善寺末寺 善立寺
【意訳】
隆信公は当村の勝山城の城主です。
三吉久高の次男であり、政高の弟になります。
元来久隆(高)の居城は三次郡畠敷村の比叡尾山城です。
久高 政高 保高 となります。
この保高は若年なので、隆信は粟屋の城に家来を残し置き、比叡尾山城に引っ越します。
この時 毛利と尼子で度々合戦がありました。
保高が成人した後に(隆信は)粟屋村の城に帰りました。
しかし、政高も御心のままになされるのが難しく 諸事 隆信の指図を受けることになり とかく仲が宜しくなかったので 隆信を比叡尾山城に呼び寄せ 二門にて討ち果たしました。
それより隆信は荒神となり 夜な夜な畠敷・粟屋村で悪いことをするので同郡の上里村比熊山城に引っ越しました(今の三次の城です)
それより保高は(関ケ原の戦い後に)萩には行かず出家して法名を同済といいました。
隆信公を(祀るため)当村の者どもは八幡の本社小宮を建てました。同済はこの宮へお参りになり,謝られたと 老人どもが申し伝えています また隆信には子がおらず断絶しました。
注:大意及び意訳に関しては詳しい方にご教示して頂きました。
家系図に混乱があるのは
①関ケ原の戦いで毛利氏が萩にいくところを広高は行かなかった。
②一度萩藩に仕官したが、資料の散逸を免れなかった。
などがあげられる。
所感
●戦国末期の城で山頂でもふんだんに石垣を使用している。
●城の加工度も高く長い間ここに居住していたことがうかがえる。
●城の麓の少し東に行ったところには市場という地名もあり城下形成もされていたのではないかと思われる。
●3郭に虎口がありここが登城路と思われるがよく分からなかった。
●2郭に神社があり、おそらく最近(そうは言っても江戸時代から戦前位)まではこの郭付近もしっかりと整備されていたと思われるが、最近は手を入れておられないように見える。
●本城である比叡尾山城までは距離が12キロ弱はある
関連URL
近隣の加井妻城。
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/03/19