城データ
城名:面山城
別名:無し
標高:428m
比高:130m
築城年:不明
城主:佐々部氏
場所:広島県安芸高田市高宮町佐々部字志部府
北緯:東経:34.787589/132.720777
攻城記
面山城全景。
現在は公園になっている。
早速登っていく。
高宮町史跡 面山城跡
佐々部氏は、はじめ高階姓を名乗っていたが、ここ佐々部村志部府面山(免山とも)に城を築き佐々部と称した。
初代若狭守承代(?~1527年)が、佐々部村五十貫分の牛首城に移るまでの在城期間は不明であるが、当時志部府は交通の要所で、その後も佐々部の中心地として栄えた。
天正19(1591)年の「八箇国御時代分限帳」によると、佐々部氏の名が見え、郡内最高額の目代給があげられている。
「蛇多き故に牛首城に移る」と旧記に見えるが、もとより真偽のほどは不明である。
佐々部氏は、近隣の諸豪族、須那の高橋氏・甲立の宍戸氏などと姻戚関係を結び、地位の保全を図った。
毛利氏台頭後は、その麾下に入り、宍戸氏の配下にあって重んじられた。
城跡は、南に低い丘陵を見下ろす標高428mの山頂にある。
遺構は、七つの郭と三条の堀切と一条の竪堀からなる。
西から東に向かってほぼ一張りに張り出した山頂をうまく利用して、三つの郭を設けている。
主郭は、東と西に空堀を掘り一段高い位置にある。
本丸とも呼ばれる山頂の郭に立つと、南東に伸びる尾根筋2kmの先端に牛首城を望むことができる。
平成14年3月25日 高宮町教育委員会 高宮町文化財保護審議会
途中の社。
本丸手前
本丸。
馬場の跡。
周辺部。
土塁。
別の曲輪。
位置関係
余湖図【面山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【面山城】
拡大図。
城の概要
本城跡は南に低い丘陵地帯を見下ろす標高428mの山頂に位置する。
遺構は七つの郭と三条の堀切と一条の竪堀からなる。
北東に続く尾根筋に二条の堀切と一条の竪堀を設けて,これに面した1郭との間に約10mの高度差をもたせ,1郭には高さ約1mの土塁を設けて背後に備えている。
最高所にある3郭は約20×13mの規模で,堀切を挾んで南西に延びる尾根上にも郭を設けている。
3郭と堀切との高度差は8mである。堀切と南西郭群との高度差は約1mで,山頂部の1〜3郭に比べて加工度も低い。
本城跡は佐々部氏が南東2kmにある牛首城跡に移るまでの居城であったと伝えられる。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
佐々部氏の入部と高橋氏との関係
佐々部氏が本町で勢力を伸ばしたのは、石見国阿須奈藤掛城主高橋氏は正平5年(1350)に阿須那三千貫を幕府から拝領した時、いっしょに入村して高橋氏に属し、高橋氏の後楯によったものか、あるいは佐々部氏の祖が源氏であることから、推測すると建久~建武(1190~1334)ころ関東から入村し、土着豪族として発展途上を高橋氏に屈し、その勢力下に組み入れられたとも考えられる。
『高宮町史』より引用。
城の歴史
15世紀後半~16世紀初頭:佐々部承世がこの地域を治めていた。
大永5年(1525):佐々部光祐が尼子方に寝返り父である通祐を殺害する、しかし、祖父である承世が光祐を追放して祐賢に家督相続させる。
佐々部御家督之事、宮千代殿可有御存知之由、尤可然候、於向後無別儀可申談候、弥御入魂可爲祝着候、長久不可有御等閑候 仍如件
大永五年十月五日 (高橋)興光 判
佐々部宮千代殿(祐賢) 参
【大意】
佐々部の御家督のことは,宮千代殿が御承知されるべきだということは,もっともなことです。今後においても,支障なく相談しましょう。いよいよ御入魂なされるということで,めでたいことです。長久になおざりにはしないつもりです。以上。
大永五年十月五日 (高橋)興光 判
佐々部宮千代殿(祐賢) 参
『萩藩閥閲録巻88山内源右衛門-4』
大永6年(1526):祐賢が祖父の承世から佐々部氏に伝来する證文、宝物の牛玉に加え、高橋興光と毛利元就からの書状を添えて譲られた。
「宮千代丸進之候
佐々部播磨守承世」
佐々部兵部少輔(通祐)を、子候式部少輔(光祐)雲州尼子と申あわせ生涯させ候、然者祖父にて候播磨守、式部少輔追捨候て、
貮番子候宮ちよ丸を當家に相定候、さゝへ三ヶ村同のへしき候、他之さまたけなく知行あるへく候、自然何方ニ古なる支證共候とも、
此以一行知行可仕候、縦式部少輔子候て嫡之儀申候共、一度重科之者之子候間、用ニ立ましく候、爲後日一筆ミやちよ丸に書渡申候、
同高橋(興光)殿御一行、毛利(元就)殿様之御一行取そろへ持候間、於此上者聊茂他之さまたけあるましく候、并ちうたい(重代)そへわたし候者也、同牛之玉、是も寶してそへ進候、仍而証状如件
大永六年丙戌正月十一日
佐々部播磨守 承世 判
宮千代丸 進之候
【大意】
「宮千代丸進之候
佐々部播磨守承世」
佐々部兵部少輔(通祐)を,その子である式部少輔(光祐)が,雲州尼子と申しあわせて,殺害してしまった。そこで,祖父である播磨守が,式部少輔を追放して,二番目の子である宮ちよ丸を当家の後継者に定めた。佐々部三ヶ村同のへしき候(意味不明,佐々部三ヶ村の所領を宮千代丸に与えると言う意味か?)。他の妨げなく知行されるべきである。もし,どこかに古い証文があったとしても,この一行(知行宛行状)をもって,知行するべきである。たとえ,式部少輔の子がいて嫡男だと申し立てたとしても,一度重い罪を犯した者の子であるので,用には立たないだろう。後日のため,一筆,宮千代丸に書き渡し申す。
おなじく高橋(興光)殿の御一行(知行宛行状)と,毛利(元就)殿様の御一行を取り揃えて持ってくるので,この上においてはいささかも他の妨げがあってはならない。併せて,先祖伝来の刀剣を添えて渡すものである。同じく,牛の玉(家宝?)も,これも宝として添え,進呈する。よって証状は以上である。
大永六年丙戌正月十一日
佐々部播磨守 承世 判
宮千代丸 進之候
『萩藩閥閲録巻88山内源右衛門-5』
大永7年(1527):承世死去。
享禄3年(1530)年頃:高橋氏滅亡後は2家に別れてそれぞれ毛利氏と宍戸氏に属し、その頃面山城から南の牛首城に移ったと言われている。
享禄5年(1532):毛利氏家臣団32名が互いの利害調整を元就に要請した連署起請文では27番目に「佐々部式部少輔」と署名をしている。
『毛利家文書396』
諱や花押がないのはまだ幼少のためか。
天文9及び10年(1540、41):佐々部祐賢は尼子晴久の吉田郡山城攻撃の時(宮崎長尾の戦い)には宍戸元源の軍に属して武功をあげる。
天文22年(1553):毛利元就が備後高杉城を攻略した時にも武功を上げる。
天正3年(1575):備中国での戦にて、佐々部氏が手柄を立てる。
毛利家臣(志道氏内)の佐々部助次郎がいる。
宍戸家臣に佐々部美濃守と佐々部民部丞がいる。
天正5年(1577):佐々部家祐は讃岐元吉城において武功を立てる。
城主家系図
『高宮町史』の中では佐々部承世の妻は高橋大九郎興光の娘とあるが、興光は1503~29のため時代的に合わない。
興光の祖父である高橋久光(1460~1521)も大九郎を名乗っているので、興光ではなく久光の娘の可能性もある。
城主石高
佐々部家惣領家は宍戸氏の家臣となる(祐賢以下)
ただし、毛利家に従った系統もあり、『毛利八箇国御時代分限帳』に何名かの佐々部氏の人物が記載されている。
佐々部弥吉
748.907石
佐々部善左衛門
55.990石
佐々部丹後
8.910石
佐々部又右衛門
10.074石
所感
●佐々部氏がいつ頃入部したのかが不明であるが当初は高橋氏の支配下にいたと思われる。
●その後、髙橋氏の滅亡に伴い、宍戸氏の家臣となり活躍する。
●城は造りも良く、牛首城に移った後にも廃城されずに、別の庶流が残ったのかもしれない。
●1591年当時佐々部市後地として16.825石を目代給として与えられている(高田郡では最高の石高)
関連URL
1530年頃に牛首城に移る。
参考URL
参考文献
『高宮町史』
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『安芸の城館』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/02/26