城データ
城名:祝屋城
別名:岩屋城、巌城、巌屋城
標高:257m
比高:80m
築城年:永正元年(1504)もしくは永正6年(1509)宍戸元家によって築かれたが、城自体はそれ以前にもあったと思われる。
城主:深瀬氏
場所:広島県安芸高田市甲田町深瀬
北緯:東経:34.739750/132.781757
攻城記
比高80mの山城。
麓の看板。
祝屋(岩屋)城跡
第6代五龍城主宍戸元家が1504(永世元)年築城。五龍城を長男元源に譲り、次男隆兼、三男家俊とともに移り住んだ。
隆兼は祝屋城主となり、当地の地名深瀬氏を名乗った。1600(慶長5)年周防三丘に移るまで四代96年間在城した。
1540天文9年6月、尼子国久、誠久、久幸の三将は将兵三千騎を率いて、備後路から志和地の八幡山城に陣を進めた。
そして祝屋城、五龍城を陥れた後、郡山城へ迫る計画であった。
尼子勢に対して、深瀬隆兼、宍戸隆家が祝屋城前の犬飼平、江の川石見堂の渡しの合戦で激しく防戦し、遂に尼子勢を敗退させ、備後路からの吉田郡山城攻めを諦めさせた。
甲田町教育委員会
攻城開始。
山頂付近に到着。
曲輪。
周辺部。
若干石積み跡っぽい。
本丸はこの上。
本丸。
投石用の石か。
本丸は広い。
余湖図【祝屋城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【巌屋城】
拡大図。
城の概要
概要
1郭は約70×20mの長大な郭で,その中央部には約20×10m,高さ約1mの区画があり,また西端部には高さ約1mの土塁を設けて尾根続きに備えている。
土塁西下は高さ約16mの切岸となり,その下方緩斜面を南西に約30m進んだ位置に不明瞭な堀切がある。
1郭周囲の山腹にある八か所の郭のうち,1郭南下方の2郭も1郭同様西端に土塁を備えており,3郭には井戸が見られる。西方郭群は教得寺跡と伝えられており,全体に加工度は低く,西端堀切も貧弱である。
1509(永正6)年,宍戸元家は本拠の五龍城を嫡子元源に譲り,本城を築いて次男隆兼とともに移ったという。以後,隆兼は在所名から深瀬氏を名乗る。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
祝屋城
祝屋城は、甲立盆地の北方にある実戸氏分家の深瀬宍戸氏の居城で、永正六年の築城以来、四代約百年続いた。
位置的には甲立宍戸氏の本拠五龍城から北方約五㎞ の地にあり、北流する可愛川が東に大きくカーブし、地峡状になる交通の要所にあたっている。
つまり、 北・西部には丘陵が迫り、可愛川を渡って東岸の川立には低丘陵が続いており、 耕地はかならずしも広くはなく、領地支配より領地を守り、交通の要所を押さえた城ということができよう。
城の創建は、永正六年、甲立五龍城主であった宍戸元家が、五龍城を嫡子元源に譲って次男隆兼と共にここに移り、築城したのが初めとされており、隆兼 は在所名から深瀬氏を名のり、宍戸氏の分家として活躍した。
以後、家兼・家 良・忠良と四代続いたが、慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の戦による毛利氏の敗 北とその防長移封により、この城も廃城となった。
なお、本城は、天文九年 (一五四〇)、尼子晴久の郡山城攻め、いわゆる郡山合戦の際、第一次攻撃の戦場となっており、同年六月、尼子国久以下新宮党三千余騎が尼子軍の先発隊として、備後志和知の八幡山城を経由して来襲した際、隆兼は祝屋城とその東に 隣接する犬飼平に、井楼・塁棚などの要害を築いて対峙し、可愛川を挾んでの1陣となったが、甲立五龍城の宍戸元源父子の応援もあって、ついに 退している。
この第一次攻撃の失敗により、同年八月以降、尼子軍へ向けての第二次総攻撃が始まるのである。
城の遺構は、西から延びる丘陵先端の尾根上を利用したもので、先端部高所を空堀で区切り、背後にも一段低く郭群を並べ、再び空堀で区切った。
つまり、 二重の空堀で画したものである。
先端部の東側郭群は、長さ約七〇m×幅約二〇mの長大な郭と、その東方前西に二段の郭、先端・南北両端部・中腹にそれぞれ一~三の小郭を加えたもので、単純な直線状連郭式に若干郭を加えたものということができるが、さらに頂部平坦面の中央には長さ約二〇mの物見状高台、西方の空堀に面しては高さ約一mの土塁を設けており、一応は城としての 防禦をしている。
また、空堀背後の西方郭群は約二〇mの郭を中心に数段の郭 からなるが、東側郭群に比べて削平や盛土などの加工は少なく、応急的なもの で防禦施設もほとんどみられない。
このように、祝屋城は記録では戦乱の記事があり、立地的にも重要な位置を占めるものの、城の構造自体は非戦闘的で、むしろ居館的構造といえよう。
『日本城郭大系』13より引用。
城の歴史
明応7年(1498):大内方宍戸氏であったが、細川方の備中三村氏に攻められて落城、駿河守系統(大内方)の宍戸宮内少輔が討死する、細川氏方宍戸となる。(閥閲録巻 73天野求馬-17)
同じ頃に父親の筑後守も岩屋城に籠城するも大内氏の支援を得られずに落城して駿河守系宍戸氏が滅亡する。
『毛利家文書49』
このことから1498年頃には岩屋城(祝屋城)があり当時の城主として駿河守系の宍戸氏が居城していたことが分かる。
※当時の城主は宍戸筑後守
永正6年(1509):この頃、宍戸元家が本拠である五龍城を嫡男である元源に譲り、次男の隆家と三男の家俊を連れてこの城に居住する。
天文9年(1540):尼子晴久が郡山城を攻める時にこの地が第一次攻撃の戦場となるが、深瀬氏及び宍戸元源の活躍により撃退する。
天正3年(1575):備中国での戦にて、深瀬源三と深瀬兵庫介が手柄を立てる。
慶長5年(1600):関ケ原の戦いにて萩に転封する。
城主家系図
所感
●宍戸氏の有力庶家として活躍する。
●祝屋城と五龍城は4~5キロしか離れておらず、地域毎に防衛上一族で固めたと思われ、それが天正9年の対尼子戦にて発揮する。
●城は本丸部分が広く居住するに適している。
●麓の地名は船津であり、ここら周辺は河川交通の要所として重要な場所であったと考えられる。
関連URL
参考URL
祝屋城 -安芸の城ー
参考文献
『宍戸記』
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『安芸の城館』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/02/26