城データ
城名:頭崎城
別名:無し
標高:504m
比高:200m
築城年:大永3年(1523年)平賀弘保によって築かれる。
城主:平賀氏
場所:広島県東広島市高屋町貞重
北緯:東経:34.479628/132.823194
攻城記
麓の看板。
あの山に登る。
長い道のりになりそう。
距離が長い分急ではない。
ここまでは別ルートで車でもこれそうだ。
煙硝の段、神社あり。
手水鉢がある。
神社は明治神宮だった。
煙硝の段から眺望。
頭崎城は、中世安芸国の有力な国人領主平賀氏が築いた山城です。
平賀氏は出羽国平鹿郡から移り、高屋町高屋堀の御薗宇城を居城としました。
その後平賀弘保は、文亀3(1503)年に白市の白山城に本拠を移しましたが、さらに戦乱の激化に対処するため大永3(1523)年に白山城の北方約4キロメートルにある、比高約200メートルの頭崎山頂に頭崎城を築き、その子興貞が居城したとされます。
現在も多くの曲輪が残っていて、曲輪の名前が残っているものとして、本丸にあたる「甲の丸」や「西の丸」「太鼓の段」「煙硝の段」「稽古場」「大将陣」などがあります。
南麓には、「屋形原」「御屋敷」「蔵屋敷」という地名や常楽寺跡などが江戸時代後期に編纂された『芸藩通志』上で確認することができ、居館や寺院、家臣の屋敷を配置していたと推測することが可能です。
このように、頭崎城は戦国時代末期の国人領主を考えるうえで、非常に重要な遺跡です。
三の丸。
太鼓の段。
石積みの跡。
曲輪も多くある。
大将陣という場所があるらしい。
この頭崎神社は大永5年(1525)に勧請したが、これは大内氏がこの城を攻めた時に守り切ったため、勧請したと伝わる。
二の丸。
甲の丸。
石垣跡。
矢竹。
至るところに石垣がある。
西の丸。
open-hinataより【頭崎城】
余湖図【頭崎城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【頭崎城】
拡大図。
城の概要
山頂部を中心に東西約900m,南北約600mの城域をもつ。
最高所の郭を中心とする郭群には石垣や畝状竪堀群を配し,虎口には桝形を用いている。
その周囲の尾根筋上や中心部郭群の西下にも数多くの郭群を配している。
頭崎城跡は平賀氏の居城で,1523(大永3)年築城と伝えられている。
当初は中心部の郭群によって構成された比較的小規模なものであったと考えられる。
しかし,1536〜1540(天文5〜9)年に本城跡を舞台に一族が大内方と尼子方に分かれて戦い,また,1551(天文20)年には「頭崎尾頸合戦」
などの毛利氏との合戦によって落城している。
これらの合戦を契機に,平賀氏は次第に城域を拡大し,改修を加えていったものと推定される。
中心部の郭群の改修時期は石垣,畝状竪堀群,桝形などの形態から,永禄年間(1558〜1570年)を中心とする時期と考えられる。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
【城史】
頭崎城が築かれたのは、大内氏の鏡山城が尼子経久のために落城した大永三年(一五二三)と伝えられる。
平賀弘保は、この時率先して尼子方につき、鏡山城攻めで 戦功を挙げた。
反撃に出た大内氏は、大永五年(一五二 五)、矢野の野間氏、志芳の天野氏、世能の阿曾沼氏と尼子方国人を次々に降し、頭崎城に迫る。
しかし、弘保は大内氏を撃退し、戦勝を記念して城内に頭崎神社を建立したと伝えられる(本殿は東広島市重要文化財)。
天文四年(一五三五)に始まる弘保と嫡男興貞との不和は、翌五年(一五三六)、武力紛争に発展し、弘保と 興貞の子隆宗は白山城に拠って大内方に、興貞は頭崎城 に籠って尼子方に付き、大内・尼子両氏を巻き込んで天 文十年(一五四一)まで続く大規模な戦争に発展した。
緒戦で大内氏は、東西条代官弘中隆兼を指揮官として頭崎城に総攻撃をかけるが、大きな損害を出して失敗に終わる。
戦いは長期戦に転じ、大内氏は付城を築いて包 囲する体制をとった。
安芸の尼子方には、平賀興貞のほか、武田光和や沼田小早川詮平がおり、頭崎城と連携をとって大内方に対抗していた。
天文八年(一五三九)には尼子軍の攻勢があり、毛利元就は、頭崎の時失った在所として、備後志 和地城、安芸壬生城、北の城、上下庄、石見阿須那庄等、 安芸北部から備後北部の所領を挙げており、尼子氏の攻勢の激しさが窺われる。
ここにきて、大内義隆は自身の出陣を決め、天文九年(一五四〇)正月、山口を発した。
同年四月、沼田小早川氏が大内方に転じ、さらに六月には安芸国最大の尼子方であった武田光和が死去する。
この月、頭崎城の興貞は、城の西方約五キロメートルの造 賀で大内軍と衝突し、大きな損害を出して敗退する。
当時、尼子詮久(後の晴久)は、上洛を目指し、破竹の勢 いで播磨国を転戦していたが、安芸国の尼子方が危機に 陥っている状況を見て、急遽帰国し、安芸国出陣を決めた。
天文九年(一五四〇)九月、安芸の尼子方の支援と、 頭崎城の包囲を解かせることを目的に、三万ともいわれ る大軍で毛利元就の郡山城を包囲した尼子軍は、毛利元 就の激しい抵抗と援軍の大内軍に敗れ、天文十年(一五 四一)正月、大雪の中を出雲に撤退した。
これによって 安芸の尼子方は総崩れになり、頭崎城は落城し、興貞は隠居に追い込まれたほか、鎌倉以来の名門武田、厳島の 両氏が滅亡したのである。
『安芸の城館』より引用。
城の歴史
大永3年(1523):平賀弘保によって築かれる。
尼子経久の南下に伴い平賀氏も尼子氏に付き従う、鏡山城の戦いにて戦功を立てる。
※この年尼子経久から久芳保・寺町など600貫余りの地を与えられる。
大永5年(1525):大内義興が鏡山城奪取の為に安芸国に侵攻し、尼子側であった平賀氏を攻めるが守り切った。
享禄5年(1532):大内氏側の志芳東村の石井元家が平賀氏被官の桧山十郎左衛門を討ち取る。
このころ、弘保は大内氏に帰順する。。
天正5年(1536):弘保と息子の興貞が大内、尼子に分かれて戦を起こす。
この頃、白山城には大内の城番が入る。
天正10年(1541):弘保、隆宗が勝利して興貞は隠居してその後家督を隆宗が継ぐ。
天正18年(1549):隆宗が備後国神辺城を攻城中に病没する(享年26歳)、大内義隆が強引に家督を小早川船木氏を隆宗の養子として隆保を名乗らせる。
天文20年(1551):大内義隆が陶晴賢の謀反で殺害、この機に乗じて陶川であった毛利元就に攻められ隆保は自刃、家督は隆宗の弟である広相が継ぐ。
天文21年(1552):興貞が亡くなる(享年55歳)
弘治2年(1556):元相が生まれる。
永禄元年(1558):弘保が亡くなる(享年84歳)
永禄10年(1568):広相が亡くなる(享年40歳)
城主家系図
城主石高
平賀氏の所領として14,251.652石とある。
また平賀太郎佐衛門として427.826石あるが誰かは不明。
※隆宗が太郎左衛門であるが当時すでに亡くなっている。
所感
●個人的には安芸国の山城の中では五本の指に入ると思う。
●曲輪の数も多く、最初は山頂の砦だったものを、大内氏との闘いの中で順次拡大していったものと思われる。
●6年間も戦争状態であったが、当時の戦はどのようなものだったのか興味深い。
関連URL
初期の城。
1503年に築城。
参考URL
参考文献
『賀茂郡史 中世武士編』
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『安芸の城館』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/02/19